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夢をみる。 [ぐだぐだ]

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よく、夢を見る。つか、正しくは、
夢を憶えている、かな。

冒頭のはスペインの画家、サルヴァドール・ダリの絵。
コペルニクス以前の天動説では地球(半球)を支えていた象。
強さや権力の象徴である象が、弱く欲望のないほっそい足で空中をいく。
無重力の象、だったかな。
ダリのモチーフは、まるで夢のよう。

夢.jpg
ほぼ毎夜、二本立てか三本立てのロードショー。
探し物が見つからない、舞台に間にあわない、とかの定番はもちろん、
羽根のあるキラキラの妖精をつまんだらなんか出てきて指についたとか、
産んだ憶えのない赤ん坊に右の乳房から母乳を吸わせていたり、
壁の中に埋め込まれた人間を救い出そうとしているとか、
墨絵くらい遠くの冠雪の山に撮影をしに行くとか、
イタリア旅行の添乗員の自分、旅行客らが現地レストランで食事中に、
添乗員チームはマッハの車で日本に戻って居酒屋で蕎麦を食べるとか。

自分のどこに、そこまでの発想力があるのか、呆れるわ・苦笑。

昨夜の夢は恐ろしかった、まずいと思った。
かつて呉本取材と執筆中に大変に苦しめられた皮膚疾患、
手のひらにぶつぶつの水泡がどんどん湧いてくるの、両の手に。
マズい、これ、まずいよ。
あわてて起きた。
ひとつ、救いは、夢の中の自宅に看護師さんがいたこと。
呉の人だった。彼女が慰めてくれた。

まだ、大丈夫だ、いまなら。そう思った。
まだ、救いがあるのだ。

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古書級・笑。

夢、眼、魔術、双子と分身。本による知識で頭をガチガチに固めてしまう、
その前に。

ダリの象のように、無重力を進みつつも、ほっそい足は地面につけて。

アイナ。

大地。




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堕天使の真実。 [ぐだぐだ]

天使ミカエルと堕天するサタン.jpg

まあ。

なんと言われてもよいです。

なぜか「天使」というものに惹かれ、ときたま本なぞ読みます。
それで、天使には階級があるとか(全9階級)、
悪魔の発端は堕天使だとか・・・、
だれにも欲されないのに語りたくなるときがある。

悪魔は、はじめから悪魔として誕生したのではないのです。
「善」あるいは「正」の対象として、まっこうの「悪」が必要とされただけ。

悪、が、あって初めての、善、なのです。

比べるものがあって初めてわかる、そういう真理。
堕天使の筆頭であるルシフェル(ルシファー)は、
ミカエルの双子の兄弟でした。
己の美しさに酔い、「我こそ神」とおごったことで天を追放されました。
2000年の牢獄に鎖でつながれたのです。

ちょっと前。

西暦2000年をプレミアムと人々は盛り上がったでしょう?
あれ。

鎖で地階につながれたルシファー(=悪魔)が復活するとき、だったんです。
だから、あんなに盛り上がった。
当時に制作された米映画には、悪魔とか地下からの龍とか出てたけど、
あれ。
ルシフェル、なんですよ。

なぜか、ミカエルと同じほどルシフェルが気になります。

そーいえば、ミカエルは英語読みで「マイケル」なので、
マイケルっていっぱい名づけられていますね、日本で言うと「太郎」かな。

どうしてもこうした絵が気になる、もちろんクリスチャンではないです。
ただ。
ミカエルとルシフェルの戦いの末にルシフェルが地下の牢獄につながれること、
お互いの言葉を介さない世界がバベルの塔を壊すこと。

いまと、どこが、違うのでしょう。

いまが、そのときではないかと、少々恐れているのは確かです。

ぐだぐだ。


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連想ゲームで吟遊詩人。 [ぐだぐだ]

盲目の吟遊詩人.jpg

『盲目の吟遊詩人』というタイトルの絵画、だそうな。

先日、ン十年ぶりに邂逅したなつかしい友との会話で、
「できるなら楽天的に生きたい」という話になった。
いろいろうんうん唸る傾向のわたしだが、「根は楽天家で」と。
彼女によると、楽天家 ⇒ 吟遊詩人 という連想ができるとか。

吟遊詩人みたいに、ふらふら~と旅をして、ふらふら~と言葉をつむぐ。
独立独歩で。

それを聞いてわたしが連想したのは「ハーメルンの笛吹き男」だったけど、
「じゃ、なくて」。

それで、吟遊詩人というのをつらつら検索していたら、見つけた。
スコットランドの伝説の英雄詩人の「オシアン」つーの。
盲目だったそう。

オシアンは、「昔日の栄誉(英雄譚)を語り継いだ」。

うーん、なんか、高まる・笑。

いまわたしがやっているのもそんなかんじかもなあって。

(まじ、ぐたぐだ・・・)



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古典の家庭教師。 [ぐだぐだ]

新しく「ぐだぐだ」という項目を設けてみました。
なに言ってんだか、ぐだぐだ・・・という分類です。

わたしは高校生から眼鏡をかけている。
はじめて眼鏡を手にしたときは(親に買ってもらったときは)、
うれしかったねぇ。アクセサリーを手に入れたみたいに。

けど、歳を重ねると、ときどき眼鏡が邪魔になった。
流行のコンタクトっつうのをしようじゃないの。
そう思った(当時はたぶんコンタクトレンズの走りだった)。

ドライアイが悪かった。

コンタクトをはじめてしばらくはよかったのに、
突如、赤目になってきた、充血?
慌てて眼医者に行くと「ドライアイだから向かない」との診断(当時)。

異物って。

体内が最初はウエルカムを示すけど、しばし交流してみて、
「おまえ、だれだっ!こちとらとそぐわねぇな!」と判断すると、
一気に抵抗の反応を示すのだとか。
3カ月目くらいだった。3年目の浮気は目測でも正しいんだな。

で。

以来、一貫して、眼鏡。そして、なぜか。

「古典の家庭教師みたい」といわれた。
(以下、わたしの顔写真が並ぶので見たくない人はスルーを)。

顔写真.jpg
イラスト横顔.jpgインスタ用.jpg

・・・ですかねぇ?

いや、しかしだね。

古典特化の家庭教師、つーのは、存在するのか?



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メンテナンス。 [つれづれ]

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いやー、ひっさびさ、すぎ。

新型コロナになってから、わたしはメンテナンス期間を過ごしました。
たぶん、身も心もギリギリまできていた。それは、
すべては自分で自分を高めて追い詰めたからなのだけれど、
そうであるとすれば、なおさら、自分メンテナンスはせねばならぬ。

なんとー、ン十年ぶりだろうか。

フリーライターに独立してすぐくらいに一緒に仕事した彼女と再会。
当時はお互いにフリーライターだった。
彼女のほうがライター先輩で、わたしは憧れた面もあった。
知らない専門用語を彼女が知っていたり。
歳も近く、わたしは彼女への憧れを(内心では)隠さないことにした。

ん十年ぶり再会して、メンテナンスしてもらってきた。
もうね、「追い詰めない(自他とも)」が効いた。
熱をよいほうへ。
楽観的な回答もちゃんと持っておく。
足元をすくわれないよう、なにによって立っているのか、知る。
あるいは、覚悟を決める。
客観的な視点からの観察者がいちばん自分らしい(笑)。

ときどき、立ち止まって、我を俯瞰することの必要。
情熱があることをわたしは知ってる、ときとしてそれが暴走することも。
澄んだ水の中へ行くにはどうしたらいいんだろう。
水の静けさ、騒々しさ、耳の奥がよく知っている。

「感じる」ってことがずっと苦手だったけど、うん、やっぱ、
「思いはエネルギー」だよー。

たとえば。

過去の苦しい体験を聞いて後世に残していくことを、良しとしない人。
わかってないな、と思う。
苦しい口を開かせてまで聞くのは、記すのは、なぜなのか。
こちとらの覚悟をご存知ない。
完全なる共同作業、わたしは、仲間は、語ってくれた人のために書く。
過去の出来事をなぜ聞くのか?

いまに生かすため。



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