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バスで佐世保クルーズ。 [呉調査]

年末のはーるばるーきたぜシリーズ、佐世保のご報告です。
呉と同じく海軍の鎮守府が置かれた佐世保。
三方を山に囲まれ、天然の湾は穏やかで水深もじゅうぶんにあり、と、
地形的条件を聞いていると呉の説明を受けているのと同じ気持ちになります。
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標高364メートルの弓張岳展望台からの景観。
どこか呉を彷彿する。

佐世保で人気は「軍港クルーズ」なんだけど、年末で営業がなく、
仕方なく、といってはナンですがバスでめぐるコースに参加しました。
ガイドさんの「佐世保は自転車に乗れない人が多い」ネタも、呉と一緒じゃん・笑。

クルーズバスでは米海軍基地前を通り、
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佐世保海軍工廠の施設を受け継いで発足した「佐世保船舶工業(SSK)」を
前身とする「佐世保重工業」を、網の外から下車見学。
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いちおう証拠写真・笑。今回の旅でわたしが映っている唯一の写真よん。
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工廠時代に英国から輸入した高さ62メートルのハンマヘッド型クレーンは、
大正2年からいまも現役。御年104才です。
長崎のは150トン、横須賀は50トン、
そして佐世保のは250トン(運べる)、ってのがガイドさんの誇りでした。
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レンガ倉庫街もある。

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この景観も・・・、呉みたい。
そしてわたしは、こういう景観を見るのがすごく好きみたい。

佐世保駅の海側には「させぼ五番街」というショッピングセンターが整備され、
佐世保バーガーで有名な「ヒカリ」などショップが並んでいました。
すごく開放的で、きれいで、歩きやすい。店もぎゅうぎゅうじゃなく余裕があって。
これくらいのんびりなものが、呉にもあるといいなあ、なんて。

カフェの窓際に座ると、目前に護衛艦。
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よく見ると・・・。
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若い隊員さんがラッパを練習している。

ぱっぱら、ぱらっぱっっっ・・・と、生まれたてのウグイスみたいに
つまってうまく啼けない(吹けてない)のだけど、
一生懸命に練習していて、いいものを見たなあって。

ちなみに護衛艦は、多用途支援艦ひうち型の「あまくさ」でした。
(あとで調べた・笑)
佐世保の子みたいです。帰って来ていたんですね。

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日本遺産をめぐる。 [呉調査]

こんなのがあるとご存知でしたか?
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鎮守府をめぐるスタンプラリー。
各地域の歴史的魅力や特色を伝えるものとして文化庁が創設した「日本遺産」。
わたしのふるさとの呉と、佐世保、横須賀、舞鶴が、
鎮守府=海軍さんのあった町として認定され、こんなのがあるんです。

スタンプを集めて応募すると景品がもらえる仕組み。
ただ、2018年3月11日が締め切りなんで、わたしは無理そ、かな・苦笑。

それでも、このたびの旅でこれだけ押しましたよ。
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今月中に横須賀に行く予定だから横須賀も2つは押せるな。
残るは、舞鶴。えいやっと思い切らないと、なかなか行けないね。

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呉で絶賛発売中の海自カレー。シリーズは10を越えるんじゃない?
ぜんぶ買うと重いので・笑、2つだけ買ってきました。

間違えないでくださいよ、海軍カレーではなく、海自カレー。
いまの現役の海上自衛隊で食されるのと同じレシピ、です。
各艦でたくさん販売されているのだけど、
今回はいまの呉のフラッグシップ「かが」と、教育隊のにしました。
美味しかったっす、家人にも好評、週末のおうちワインにも合う・笑。

呉調査報告は続きますっ! 乞うご期待。


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良いお年をお迎えください。来年も何卒。 [呉調査]

呉に入りました(帰りました)。
はーるばるーきたぜの佐世保がエライ寒かったので、
呉の寒さはまだまあるく耐えられる感じ・笑。
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呉総監部の玄関に門松、お正月気分ですね、すっかり。
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ドックにはメンテナンス中の護衛艦。「かが」ではないかな?

年の瀬ではあるけれど、呉でも年末ギリギリまで活動。
ご紹介からのまた新たな出会いと、「お説教」がほしくてお訪ねする方と。
自分の手に負える町ではないと思い始めてから、実はちょっと呉が「怖かった」けど、
人にもらうさまざまな言葉とご厚意とで勇気づけられます。
もちろん、「やべっ、がんばらにゃ」な気持ちになるんだけど・爆!

市役所の市史編さんに飛び込んで約一年、一年なりにがんばったよー。
そしてますますがんばるよー。新しい年もよろしくお願いいたします。

佐世保で思いがけず訪ねた三浦教会を最後に。
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戦時中はコールタールで黒く塗られたそうです、見つからないように。
そのおかげか爆撃を逃れ、現存。いまは壁も白く戻りました。

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ステンドグラスの光があまりにきれいで・・・、パシャリ。
教会内って本当は撮らないほうがいいところも多いんだけど、
「見ないふりしてあげる」って撮らせてくれました。

やさしく、あたたかくも、ド派手な光で、やってこう、って。

良いお年をお迎えください。
呉の実家はなにせネットがつながらないので、これが今年最後の投稿。
今夜は幼なじみたちと飲むよー!!


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爆撃から逃れた防空壕。 [呉調査]

はーるばるーきたぜ、さーせーぼー。
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連日の、はるばるきたぜシリーズ、佐世保です。

長崎一泊目はホテルが悲惨。
午前2時まで向かいのどんちゃん騒ぎ。大声なのに言ってることが
ちっともわからないと思ったら、日本語じゃなかった。
その後は、悪夢と金縛りを繰り返すループにまんまと陥り、ほぼ無睡。
怖かったすよ。ホテル、変えました。

そんなこんなの寝不足大王ですが、朝一の高速バスなのでむしろ時間がよろしい。
暗いうちから佐世保を目指しました。
着いて午前中の訪問にわたしが選んだのは「無窮洞」という防空壕跡。
なんと、最寄りは「ハウステンボス駅」。
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こんなのを横目にしながら。

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目当てはこちら。

先の大戦中の昭和18(1943)年8月29日から掘りはじめ、
終戦の昭和20(1945)年8月15日に「掘りかた、やめ」で終了。
当時の旧宮村国民学校の12、13、14歳ほどの少年少女が、
その手につるはしや、ほげと地元で呼ばれるざるを持って掘ったものです。
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これが結構広い。圧迫感のないよう天井も高い。

きっと、こんな感じだったのでしょう。
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「無窮洞(むきゅうどう)」と名づけたのは当時の校長先生だそう。
無限極まりなく子どもたちの将来のあるように、と、
真相はポジティブな意味だったのですが、最初は逆に捉えてました。
掘っても掘っても戦争にキリがないって意味かと思った。
苦しさは子どもたちも同じ。大人以上の苦しみもあったと思います。

つるはしを突き立てた生々しい穴ぼこもいっぱいありました。
食糧難で食うものも食わずの子どもの労働の成果としては、
とても立派なものでした。
地下なのでひんやりしているし、石清水がいまでも溜まるそう。
掘って掘って掘り進んで、食糧倉庫を掘っていたときに終戦。
未完成のまま、いまに残っているのだといいます。

「ここも空襲を受けたんですか?」……わたしの気がかりはそこ。

「警報で7回ほど避難したようですが、爆撃は受けなかったと聞いています」
と、ガイドのおじさま。

ただ。
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「山の向こうにもくもくしたのを見ましたよ」・・・原爆のことです。

あの山の・・・、あの低い山の・・・、上に。

佐世保は呉に似ているんじゃないかと思いました。
原爆投下のほど近くで、海軍を抱えていた。

爆撃がなかった、というだけ、ほんのすこしだけ、救いを感じる。
うん・・・、救いでもなんでもないけれど。すべてが戦争だから。

レンタカーのない身では非常に不便だけど、行ってよかった。
修学旅行生などはたくさん訪れるそうです。
行きはハウステンボス駅からタクシーだったけど、
帰りはおじさまが車でハウステンボス駅まで送ってくれました(たぶん特別)。

午後は別を見学して(改めて書きます!)、最後に佐世保海軍墓地へ。
呉でいえば、長迫の海軍墓地です。
これまた駅から少々あるので、時間も鑑みて行きはタクシー。
帰りは市バスを使ってみよう歩いていたら・・・、防空壕発見!
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わー!
呉の道で見るのと同じ!!

タクシーでは気づかなかった。歩いてみて正解でした。
過去の防空壕は、倉庫や車庫や、なんとお店にも活用されているみたい。
ある種のすさまじい生命力?というか、地の力というか。

佐世保は初めての場所です。なのに、呉によく似ていました。

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武蔵のふるさとへ。 [呉調査]

はーるばるーきたぜ、なーがさきー。
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はーるばるきたぜシリーズ。長崎。(以前、前橋に行きましたよ)

呉が海軍工廠を有する時代に建造した、世界最大級の戦艦大和。
その姉妹艦「武蔵」は、長崎で造られました。
姉の大和は軍のおひざ元で造られたけど、妹の武蔵は民間だったんですね。
(大和と武蔵は設計図を共有する姉妹艦なのです)
三菱重工業株式会社長崎造船所の史料館。
予約すれば一般公開あります。800円也。

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工場内に入ると撮影不可なんですが、建物だけなら撮れる。
あと、内部も、一部寄贈品展示を除いては撮影可能です。

広いっ。

事前に、わたしの呉の大師匠、相原謙次氏のご著書『戦艦武蔵の真実』読み返しました。
とても学ぶ冊子なのだけど(今日のガイド女史はこの本で泣いたと言ってました)、
巻末ページで紹介されていた同館は写真が悪いな、もっと狭いと思った。
1898年、いまから119年前に建てられた煉瓦造りの建物は、
現役中は工場だったとのことで、天井が高くとても広い。
創業時からの歴史が写真や品々で綴られ、こんな巨大なタービンも。
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ここだけ見たら「ラピュタ」の世界じゃない!?

奥に「武蔵」の一角があります。機密建造だったため、資料は写真3枚だけ。
ただ、建造に使われた工作器具の本物がいくつかありました。
リベット(鉄鋼の部品と部品をつなぐビスみたないなの)の器具とか、
ハンマーとか。めっちゃ重くて持てないっ。
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まるで聖地巡礼です。

呉つながりの、ゆかりある場所を、時間とお金の許す限り。

呉工廠と三菱長崎のつながりをもちっと聞きたかったけど、時間が足りず。
うーん、やっぱ、なんか特別なツテを作らないと物足りないな・爆。
手を尽くしますよ。
ご案内くださったガイド女史は、きっと同世代で、長崎と武蔵が大好き。
最後の10分は展示物の検証より、彼女との会話に費やしました。
「いつか本を書きたいのでよろしくお願いいたします」
彼女自身は、鎮守府日本遺産を機にガイドさんになられたらしく、
「取材されるなら本体に言っていただけば」と言ってくれました。

大和ばかり見てみたけど、ここ(長崎)に来ると、武蔵なんです。
武蔵をもっと知ろう、大和の妹だしね。
そして、注目される戦艦ばかりでなく、客船や補給船など、
巻き込まれた船たちも。

明日は、佐世保。いやー、時間が足りないっ。
つーか、もっと計画立てればよかった、けど、詰め込むのもわたしはダメ。
頭も身体も心もいっぱいになっちゃうから。自らの器の小ささを自覚しています。
だから、また来よう。
それが、大事なのです。

で。

明日はド早朝から佐世保を目指すので、今宵はホテル部屋飯にしました。
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角煮まんは必須で。

テレビをのほほん見てると、コマーシャルが長崎なの。
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まあ、もみじ饅頭のCMも広島でしかやってないけどね。
カステラのコマーシャルも長崎でしか見られないかも。


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焼夷弾をさわりに。 [呉調査]

はーるばる、きたぜ、まーえばしー。
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特急券を使わずスイカでぴぴっと、往復5時間程度。
本を読み読み途中目を上げて車窓を見ると、関東平野だねー。
遠景に山々はあれど、どこまでも似たような景色の中、ひたすら、
横移動していく感じ。住まいあたりが土砂降りだったのも知らない晴天のもと。

往復5時間もいとわず?来たかったのは、あたご歴史資料館。
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前橋駅から徒歩なら20分ほど、愛宕神社の裏手にあります。
なんつーか……、地元密着な素朴さ。

火木土13時から15時までの開館、12時45分に着いちゃったけど、
「いいですよ、どうぞどうぞ、時間いってもあるようなないような」と、
昭和12年生まれのおじさまが半袖半ズボンで迎えてくれました。

わざわざ来たかったのは、焼夷弾がさわれると知ったからです。

太平洋戦争末期の昭和19~20年ころ、
前橋も米軍による無差別じゅうたん爆撃に遭いました。
米軍作成の目標計画順位表では、前橋57位、呉は10位に挙がっていました。

どうして前橋だったのか? 人口別中小都市の一つと考えられたとされます。
もう一つ、製糸産業(生糸)がさかんであったこともあったのでは、と。

安政6年の開国以来、前橋で生産された生糸(からのシルク製品)は、
欧米への主要な輸出品で、外貨を稼ぐ大きな柱だったとか。
空襲を受ける頃には製糸工場とは隠れ蓑で兵器の部品工場になった。どこも、そうなんだ。
「前橋の生糸で、日本は、大和や武蔵を造ったわけですよ」
別の眼鏡のおじさま(こちらも戦中生まれ)が、ちょっぴり自慢そうに言うので、
「そうでしたか、それはありがとうございます、わたし呉なんで」。
対抗していました・笑。
おじさま、目をぱちくり。「大和はどこで造ったんだっけ、三菱?」

わたし「違いますよ、呉の工廠ですよ」
おじさま「ほー、呉で。三菱じゃなかったっけ?」
わたし「(しつこいなあ)呉には海軍の工廠があったです、鎮守府があって。
三菱で造ったのは長崎、二番艦の武蔵です」
おじさま「そうね、そう」

おおう、地道に勉強してきたことがやっと役立ち始めた。と、同時に、
自分の地元のことは知っていてもよそのことはそうでもない……のだなあと。
関連付けてすこしずつつなげていくのも、大事かも、と。課題を感じたり。

こちらが、地元から見つかったという焼夷弾。
焼夷弾3.JPG

焼夷弾展示.JPG
実に無防備に置かれています・笑。ちなみに扇風機は展示品じゃなくて現役備品。

わたし「さわっていいですか?」
おじさま「どうぞ、どうぞ」
焼夷弾持つ.JPG
持ってみました。
重くて、硬くて、じゃりじゃりしている。

おじさま「これ、持てるかね?」
わたし「なんですか、これ?」
おじさま「焼夷弾をまとめて束ねて頭にかぶせるふたよ。重いよ~」
わたし「……ふんぬっ! ぬぬ、あ、あがらないっ!」
おじさま「ハハハ! 上がらんでしょう、25~30キロはあるかねえ」

焼夷弾蓋.JPG
え? え? これがB29から落ちてきたの?
これで即死する!

焼夷弾は、日本特有の木造建築を燃やすために開発された、つまり市街地と市民、
無差別攻撃のための兵器。一本六角形の辺に合わせて合体させ、このふたをつけ、
投下してから結束バンドがちぎれてバラバラになった焼夷弾が降ってくる。

ついこの夏、もう一本展示していた焼夷弾が陸自に没収?されたそうです。
「中にナパームがちょっと残っていたのかなあ、ほかのより200グラムほど重くて、
信管もついたままだから、こりゃマズい、危険ですから、って。
農家さんに頼んでもらってきたのになあ、残念よ、残念」。とはいえ、
運んでくるときやここで爆発しなくてよかったと、カラカラ笑うおじさま。

小さな集会所一部屋の広さですが、お話好きのおじさまと、無防備な展示品で、
2時間近くも見ておりました・爆!

鉄のカブトもかぶってOK。重い。これで南方作戦は苦しいです。
鉄兜.JPG

赤紙.JPG
赤紙、召集令状。
毒マスク.JPG
防毒マスク。こんなものが身近にあったとは。
飯盒と水筒.JPG
名前や日付が彫られています。
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ゲートル。初期は左で緻密な織りでしたが、だんだん右のように薄くなった。
現代にもサポーターは各種ありますがゲートルもその一種。
古くは江戸時代の脚絆(きゃはん)が進化したもので締め付けの疲労防止。
ゲートルを巻いて歩け走れひと時も止まるな、なのです。
加えて、下から這い上がる虫・蛇・蛭も防いだといいますが、
こんなに薄くなってはやられ放題で兵士は傷ついていきました。

あたご記念写真.JPG
今井さんと、太田さん、わたし。

さわれる、ということがポイントでした。歴史をわが身に想起させるために。
みんなに触られて腐食していくリスクもあると思うけど、
ガラスケースの中に大事大事に飾るだけでは遠のいていくと思うんです。
さわって、手を真っ黒に汚して(焼夷弾はあえて磨いてなそう)、重くて、
過去になにがあったかを、もしいま同じことがあったらどうなのかを、考える。
わが身のこととして、考える。

行ってよかったです。往復5時間は電車のお尻が痛かったけどね・笑。

★初回アップ時の記事に一部間違いがあり、ご指摘いただいて直しました。
本当にありがとうございます。どんどん教えてください!

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威厳とやさしさ。 [呉調査]

思い出したような更新ですが、呉のこと、すこしずつ。

この夏の弾丸帰省の目的に、造船のJMU見学がありました。
ジャパンマリンユナイテッド。旧呉海軍工廠の造船所跡地を受け継ぐところです。
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写真左手に切れちゃってるけど見えますね「大和のふるさと」。
ここで戦艦大和は建造されました。
いまはコンテナ船に特化した造船所です。
巨大コンテナ船を15隻連続建造しているちょうど折り返しのあたり。
わたしが見学させてもらった日に8隻目が試験運転に出たとのこと。

大和を建造した造船船渠(せんきょ)の大屋根の一部が現存しています。
船渠の底は大和という巨体に合わせ1メートル掘り下げて拡張されましたが、
現在は埋め立てられ溶接工場になりました。
(ちなみに溶接技術は非常に難しく一級の熟練技師はここ呉に多いそうです)

大屋根の下を(車で)通りました。ここが、そうか。
市民の目から遠ざけたかった極秘戦艦の隠れ家。
いまも現役の工場のためか、
ノスタルジックな感傷ではなくモノが造られていく臨場感があります。
これ、むかし、スペイン・バルセロナでサグラダファミリアを見たときの
感覚に似ている。崇高な教会うんぬんではなく「現在進行形の工事現場」と感じた。
サグラダファミリアは過去からずっとずっと建設途中ですからね。
過去の時間から途切れることなく受け継ぐものが呉のJMUにもある。
歴史を「歴史」として昔話のように聞いているのではいまに役立てられない。

そういう意味でのある種のトリップ感は受けました。
野の川に飛び込むように、時間(歴史)の流れに飛び込むような。
溺れるわけにはいかない。流されるわけにはいかない。
流されず溺れないための泳法が、歴史を正しく学ぶこと。
まだまだ浮輪がないと完全に溺れるわたしですけれど・苦笑。

史料館もご案内いただきました。呉の造船の歴史が緻密に大事に残される稀有な場所。
普段は一般公開ないそうですが、こんどの10月に一般公開がありますよ!
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外から眺めているのと、中に入るのでは、まったく違う。

歴史書を丁寧に読めば書いてあることであっても、
かいつまんだ解説書や観光パンフには載ってこない、だから知る人がすくない。
そうした史実が史料館にはたくさんあります。大和の工法とか、溶接とか、
呉が受け継ぐ技術の骨頂を知り、正しく学びたいと思いました。
もちろん、理系頭ではないからそういう理解はたぶん無理だけど・汗。

この辺りだけでドラマ一本できるから。そんくらい事実は小説より奇なりだから。
戦争賛美でも、兵器奨励でもなく、純粋なる技術と熱意をどうすれば抽出できるか。
いや、兵器である、という事実をしっかり踏まえてからがスタートか。


見学後、初めての呉地方総監部庁舎へ。言ってみるもんです。
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庁舎には道路側と海側の両方が「正面玄関」。海自なので艦艇で訪れることが大前提。

煉瓦造りが有名です。空襲や芸予地震で一部損壊しながら修復を超え、
当時の形が再現されているとのこと。

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玄関正面の柱が三本組になっているのは、
安芸(広島地方)の領主、毛利元就の逸話「三本の矢」をヒントにデザインされた、
という説もあるのだそう。
この三本の柱に注目して紹介している媒体は絶対的にすくないです!

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一階と二階で壁や窓枠のデザインが違うことは有名(らしい)。
でも、それぞれの表現について述べているものはすくないと思う。
上の丸みは「やさしさ」を、下の角張は「威厳」を。

勝手なとってつけ解釈と思われてもいいです、でも、わたしは納得したかった。

力のみでは闘えない。だれも着いてこないし、だれも守れない。
感情ある生き物が地球上に人間のみであるなら、やさしさがなければ生きていけない。
本当の強さはやさしさ、なんて、最近はときどき聞きますね。

敷地内を案内してもらっていると、通りかかる自衛官のみなさん、
とても「快い」ので、こちらも「ココロ良く」なれました。
普段は厳しく規律正しくされているのでしょう、だからこの柔和がある。

百聞は一見に如かず。
外から見てるだけではなく、これからもぐいぐい行きたいです。



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本物っぽいか、本物か。 [呉調査]

盆明け弾丸呉帰還のご報告、すこしずつですが進めていきます。

昨年2016年5月に呉市による戦艦大和の潜水調査が行われ、
現在大和ミュージアムにて「海底の戦艦大和ー呉市潜水調査の成果ー」の
特別展示が開催されています。11月27日まで。

今年初めに、実際に潜水調査をされた職員さんと学芸員さんにお話を聞きました。
同行した若い新聞記者さんにも。
約50時間の映像と約7000枚の写真を撮影してきたとのこと。
新しい発見もあったし、過去3回の潜水調査から年を経て朽ちた実態もわかった。
どのような展示にするのか、非常に考えられたと思います。

4月末に始まった特別展示がようやく見られる。
期待して行ったけど、すこし物足りなかった。

解説のパネル展示は、300円のパンフレットと同じ。まあ、
見学した後にパンフレットを購入すればおさらいできるので、助かります。
ただ、「展示でしか見られない」感がすくないのは残念。
7000枚もある写真を(出し惜しみせず)見せる方法はなかったのかな。
もちろんすべてではなくても、もうちょっと、閲覧者が自由に見られるように。
写真で畳みかける感じがあっても良かったなあと。

一方、数分に編集された映像解説は見やすかったです。
主砲とか、バーベットとか、甲鈑とか、缶室とか、測距儀とか、
艦艇の専門言葉がわからないと「???」だけどそれは仕方ないとして、
海底の現状はこうなのか、とわかる以前に、「戦艦」とか「大和」とは、
ごっつい鉄のかたまりなんだってこと、兵器であるということを、
イメージではなく映像の事実で見て知ることは大事でした。
わたしは「一方的に見せられる」ことが苦手なので・苦笑、
映像が長すぎないのが良かったのは非常に個人的な好き嫌いの理由で・爆。

見せどころはこれだった、のかな。
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海底の傾きとほぼ同じに造られたレプリカ。
残念ながらあまり人を集めていません。
照明が暗いせい? 劇的な解説がないせい? ……ちがう。
「本物っぽいにせもの」はいらない、から。
明らかにレプリカなので惹きつけられない。原寸大を見せたいなら、
ここまで作らずとも、7000枚の中から拡大写真を置いたほうが、まだ。

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いま、海底の大和はこんな風に散らばっている。
こっちの展示を中心にするのもアリだったんじゃないかな。
これも完全なる模型だけど、レプリカとは目的が違う。
当時世界一と言われた巨艦がコッパみじんという事実。
どれが主砲搭で、どれが測距儀でと、非常に興味を持ってのぞき込む。
鉄の塊、技術の粋、爆破の恐ろしさ、戦争とは――。

ああ、欲を言えば、新聞記者の若者も言っていた「生活の跡」も、
勇気をもって展示しても良かったかもしれない。
遺族感情は確かにあるけれど、わたしたち全員が、日本の遺族。
見たい/見たくない、感情はごく個人的に真逆に振れる。
直接的な遺族が途絶えればおしまい、ではないから、
見たいも見たくないもわたしの中にもある。

せっかくの特別展示。特別な想いを抱かせてくれますように。

機会のある方はぜひ足を運んでください。そして、
抱かれた想いをわたしへのご指摘もぜひぜひよろしく何卒☆彡



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伝え方の変化。 [呉調査]

18日に雅叙園ディナーショーを終えて翌日19日から、
疲労した身体を引きずって弾丸呉帰還。3泊と短かったけど、
またまたじゅうじつしすぎる濃い濃~い時間と体験。しばらく復活不可能・苦笑。
すこしずつご報告していきます!

今回の帰呉の目的は、まずは盆(明け)の家への定例顔見せ。
それと、東京でパチパチ文作にあたって疑問や穴のある部分を確認すること。
もうひとつ大きな目的がありまして、それは次回のブログで★

帰呉したその夜は幼なじみたちとてっぺん越え飲み会。
なんでこうも毎度毎度、話題と笑いが絶えないかね・笑。
「おかえり~」「ただいま~」。
このごろ何度も帰呉するからこっばずかしいんだけど、
「なにようるん、いつでも帰って来んさい」と。そうだここはわたしのふるさと。

「ふるさと」のフレーズから呉といえば「大和のふるさと」がいまのキャッチコピー。
旧呉鎮守府司令長官官舎の入船山記念館に続く美術館通りには、
戦艦大和のストーリーを辿るマンホールが設置されています。
大和マンホール.JPG
足元をチェック!
こんなデザインマンホールが坂の上の入船山記念館前まで続いていく。

戦艦大和は何度か姿を変えています。甲板に載せてる対空兵器が変わっていくの。
戦いのたびに故障して修繕して追加して変更して次の戦いに備える感じで。

竣工時。
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捷一号作戦(レイテ沖海戦)の時。
捷一合作戦.JPG

天一号作戦(沖縄特攻)の時。
菊水天一.JPG
「菊水一号作戦」と記されているけど、正しくは「天一号作戦」ではないか、との指摘があります。

……ええと。こんなマニアックに見せられても困るかもだけど・汗、
よくよく見てください、搭載されている対空兵器、すなわち副砲や高射砲の数や位置が
それぞれ違っている。ハッキリ言ったら増えていくの!

デザインマンホールはぜんぶで10個あり、美術館通りに8個、
長迫公園(旧呉海軍墓地)に2個。長迫の2個は今回見逃したので次にお預け。

写真を撮りながらフムフム登って入船山記念館へ。
入ってすぐに高烏砲台(休山)から移築した火薬庫があります。
入船山火薬庫.JPG

ここに古い絵画が展示されていてそれが見たくて行ったのだけど…。
火薬庫の絵.JPG
本物はなくなり、スライドになっていました……。

「つい半月前なんですよ。もう絵も古くなって展示に耐えられなくてね。
絵のほうが説明しやすくてよかった。これになって説明しなくなりましたね」
と、ボランティアガイドのおじさま。

もったいない。

絵には、リアルな写真とは違う「当時の空気感」が現れていた。
筆を走らせる画家の主観が混ざるということは、当時の人々の思いが、
構図や色や切り取った景色にあった。それを再度感じて行ったのに、
とっても残念でした。

しかも。

同じ火薬庫の中の絵とは反対の壁では、新キャラクター「呉氏」のプロモビデオが。
うーん…。
子どもはこれを見ればおしまいだし、肝心の絵のほうは親も無視していく。
火薬庫の空間に「くれーしー、ごな、くれーしー♪」が響きまくって参った。


いや、いいんだけどさあ。

なんか、ちょっと、これでいいのかなあって。

ここ入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)は、元は亀山神社があった場所。
神様を遷宮させて海軍が陣取った。
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歴史民俗資料館の窓から、いまの亀山神社が見えていたんだけど、
緑生い茂る夏のせいか、剪定してないせいか、ほとんど見えなかった。
冬の季節に行けば見えるかなあ。

伝え方の変化、というものを、すくなからず感じました。
いまの人にわかりやすいように、興味が持てるように、キャッチーに。
決して間違ったことではないと思う、ただ、残すところは残したい。
残せる方法を考えたい、なあと。

わたしはたぶん「いまの人」のグループに属する。
まずはわたしが興味を持てる方法を探してチャレンジします。


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終戦の日に。 [呉調査]

太平洋戦争が終わって72年。長いです。長いけれど、
自分が生まれた昭和45年が、終戦からわずか25年目だったと思うと、
わたしの体もいくばくかの「戦後」の空気感を幼い時期に浴びていたのではと、
そう思いもするのです。

戦争体験者が高齢化して話を聞くのが難しくなってきた。
でも、まだ、すこしは聞ける。これってすごいことです。
幕末とか戦国時代のことはもう誰にも直接は聞けないわけだから、
それとは違って太平洋戦争についてわずかでも直接聞けるのは、すごいこと。
この機会を逃してはならないと思います。

とはいえ。

なんのツテもない一塊のわたしではなかなか難しいんですけどね・汗。

単に勇気がないってのもある。誰か教えてください、聞かせてくださいと、
当たって砕けろをがんばってはいるのだけれど、なかなか、なかなか。

呉を調べはじめ、「呉だけでは収まらない」ことに気づいて唖然とします。
もちろん、「呉」だけでも、わたしのような者では受け止め切れない
大きな大きなものを孕んでいて、器がぜんぜん足りないんです。
それでも、1年前と比べたら、ずいぶんがんばって勉強したんだよ・笑。

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呉の戦災の体験記と資料を編集したこの本は、もう、
呉市内にはほぼ残っていないそう。
先日の帰呉で訪ねたおば様にいったんお借りしたんだけど、
「この時期はひっぱりまわされて、質問攻めで、本が必要になって」と
ご連絡をいただき返却しました。いずれ要らなくなったら譲ります、と。
それは、おば様からもうお話が聞けなくなったときを指すもので、
すぐには返事をしかねたけれど、「大切にしてくれる人にあげたいの」。
それまでに信用していただくに足る人になろうと、「はい、いただきます」。
小さくて硬いダイヤモンドの原石みたいな約束をさせてもらった。

ちなみに、本はもうないけれど、中身は読めます。
http://kure-sensai.net/Book/KuroiBonchi/KuroiBonchi.htm
(呉の戦災を記録する会)

一方で、呉が抱える自衛隊のことも、すこしずつ、知っていく。
江田島の海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校を見学(ちょっと前)。
DSCF1568.JPG
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こちらは呉市内の通称・てつのくじら館、海上自衛隊呉史料館。
「このアングルがいいんだよ~」ってボランティアガイドのおじさん撮影・笑。

ち、ちょー難しいんだけどこんな書籍も。
同じような話をいろんな本で何度も何度も繰り返し読んでやっとすこしだけ憶える感じ。
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ほかの方がFacebookでシェアしていたので知ったのだけど、
http://www.rosenkranz-jp.com/Information/People_musical_instrument_music_car/famous_saying/emperor.html
玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の原文の意味は、
現代のわたしたちが印象付けてしまっているものと違うようですね。
耐えて忍んで敗戦を受け入れるのではなく、
これからどんなに辛いかもしれないが耐えて忍んでがんばろう、という意味。
(かなり意訳です、きちっと原文見てくださいね)

わたしたちは、すくなくともわたしは、決して戦争を美化しない。
ただ、「歴史が語ること」に真摯に耳が傾けられるかどうか、目が開けるかどうか。

愛とは、寄り添うこと、耳を傾けること、と言います。
歴史を体験し、いま目の前にいてくださる方々に愛を寄せて、
ますますがんばります…、と、今日だからちょっと決意を書いてみました。



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