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東郷推しの舞鶴で、引揚記念館推し。 [続・呉本]

ちょいとわかりにくいタイトルでごめんなさいね。
お盆突入直前の日程で、初の舞鶴。しかし、暑かった。

呉とは、旧帝国海軍の軍港仲間である舞鶴。一度は行きたくて。
しかし、暑い。。。
舞鶴鎮守府の初代司令長官が東郷平八郎であることから、
どこへ行っても「東郷推し」が半端ないです。
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こちらは、海上自衛隊舞鶴地方総監部の敷地内にある
「海軍記念館」に据えられた東郷平八郎の胸像。
なんと。
戦後に西舞鶴をパトロールしていた警官によって発見、
地中から掘り起こされたそうな!

こういうことです。戦後、日本の軍は進駐軍を恐れて
あらゆる資料を消滅、あるいは徹底的に避難・隠秘させました。
江田島の第一術科学校内の教育参考館もそうでしたよね。
出来得る限りに資料を避難させ、できないものは泣く泣く焼失させた。

そういうひとつとして、胸像もきっと地中に隠されたのだろうと
推測できるそうです。また、戦争の記憶を持つ人がまだ元気にいたころで、
そうした方々からの証言からも裏付けられたのだとか。
舞鶴の総監部には、いまは美しい庭となっている場所から
掘り出されたという門柱も静かに据えられていました。

まあ、とにかく、東郷推しなのです。
お宿の温泉も「東郷の湯」だし、東郷ゆかりのなんと多いこと。
次第に「東郷飽き」しちゃいましたがね。そこまでゆえに。

同じ旧海軍軍港であっても、呉に流れる時空が昭和とすれば、
舞鶴には明治が漂っているのです。

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このたびの舞鶴訪問はわたしの厚かましさ大爆発で、
総監部への表敬、市のまちづくり課さんによる下にも置かないご案内を賜る。
どこもかしこもときめいたけれど、中でも一押しは、
引揚記念館です。上の写真は復元された引揚桟橋からの眺め。

この海。
当時もいまも視界はほとんど変わっていないはず。。

舞鶴の引揚、シベリア抑留と聞けば、悲惨で過酷で苦しいばかりを
想像しがち、けれど、ここへ来たら180度の思考転換ができます。
学芸員さんによる素晴らしいご案内。

「ここは、新たな人生を、再びの人生を始めた場所です。
だから、希望の地なのです」。

ああ。そうだ、そうなんだ。

事前にシベリア抑留の体験談を一冊読みました、そこで感動したのが、
一度目の冬は凍えて辛くて次々に仲間が死んで、激しい空腹で、
もうじき死ぬ者はわかるようになるからその手から零れ落ちるパンを、
パンのかけらを、そいつが死んだらもらってやる、という凄まじさ。
ところが。

二回目の冬には文化的な心の活動が始まったというのです。
たとえば、俳句、短歌。日記。
食うや食わずになれば人間は獣であるとよく言われるけれど、
たしかにそうだけど、
その壮絶さをも超えてしまうと、心や文化がないと生きられないというのです。

紙が無いから、白樺の木の皮を薄く丁寧に削ぎ、
ペンは無いから、鉄くずを拾ってペン先に加工し、
インクは無いから、燃え残る墨で作った、と。

そうまでして人は、文化を、ことばを、心を紡ぐんです。

辛いような苦しいような感動でした。感激でした。文芸のみならず、
花札や麻雀パイを作ったり、中でも多いのが「手作りスプーン」だったそうです。
ああ。
人間とは、心を育む生き物なのだ。そこを忘れちゃいけない。

戦争から学べと、歴史から学べというとき、わたしは、
当時を批判したり判断したり裁いたり愚痴ったり変に称賛したりって、
ことじゃないって、舞鶴でつくづく思い知らされました。

当時から抽出する。教訓。真のところを見つめていまに生かす。

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まあまあ、あんまり述べても長くなりましたね・爆。
こちらは「海軍レモネード」。
生のレモンを絞ってシロップを加えてまずは飲み、
次に、紅茶をひと匙、珈琲をひと匙加えて味変を楽しむ。
これ。

「海軍割烹術参考書」に記載されている海軍当時の飲み方ですって。

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