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聴こえる、聴こえない。 [ライター仕事]

我が家表紙.jpeg
ネットやお近くの書店さんで絶賛販売中の一冊。

生まれながら聴こえない女優と、
そんな彼女に一目ぼれして呆れるくらい諦めなかった夫(俳優)の、
エッセイ本。

当初はネット販売のみだったのが、予想外に(!?)好評いただき、
書店さんや、関連映画上映の映画館さんでも販売が決まりました。

でね。
いま、故郷の広島でもなんかイベントできないかなーと企画中。

もし、もし、うまくいったら、チョーいいとこです!
その際には告知しますので、ぜひご参集くださいね☆彡

アコちゃん(忍足亜希子さん)、この本の主人公の一人に
お会いできて、この本にも深く関われて、本当に幸いでした。

聴こえる? 聴こえない?

ふと気づき、ずっと思っているのは、
アコちゃんの天然ぶりは神様のご加護ではないか、ということ。

いま、騒々しく、不必要で、いっそ毒になる情報が蔓延し、
なぜか人々はおのれからそれを求めていますね。
どんな場面も猫背でスマホを見ているのが証拠です。

バカじゃないの、と、思います。

アコちゃんは世間の喧騒が聴こえないぶん、
自分に必要な、本当に必要な声だけを聴いていると感じました。
彼女ね、ほんの一週間も違わない生まれなの、まるで双子!

まえに、つばの広い帽子をかぶって、なんだか周りの音が消えて、
後ろからくる車にもときとして気づかない風だったんだけど、
あれ? と。

ふだんからこんくらいでいいんじゃないの? とわかった。

わたしたちは雑音を聞きすぎる。
意図せぬ音に惑わされておのれとは違う意志を見間違う。
信じているそれは、本当に自分からくるものですか?

なんだか不思議なめぐり合わせでアコちゃんに出会った。
わたしを執筆者として見つけてくれた担当くんにも感謝しかない。
彼女の天真爛漫さは、生まれながらのものにして、
横やりの応酬の中に耐えて磨き上げられたものだと思う。

彼女の。

聴こえないぶん、聴くべき声を聴いているのよ、という、
なんかそーゆー本も書きたいと思ってます、テヘ☆彡

続・呉本とは周波数の違うとこで、否、あるいは同じ土俵で、
わたしが生きていてもいい間に書けたらいいな。

あ。
さんざん求愛してこれはわたしの一方的なんだから・汗。
近々アコちゃんに聞いてみるね!



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最期の声を。 [呉本くれぼん]

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短く帰呉していました。いまは晴海。
これは呉の両城(りょうじょう)という地域の有名な階段。

のぼらなかったけどね・汗。このたびは。
遥かだなー、と。思うよね。

低い山の崖に突如にょっきりと生えるみたいにして
家々がしがみついている景色は呉の特徴です。
なんか、しめじみたいだなー、と。思います。

平たい地からいきなりそそり立つ崖と家々にパンチを喰らう。

DSC_1712.JPG
なんとか次の執筆の意欲のわずかながら湧いてきて、
テーマを「最期の声と」に裏設定しました・爆。

内緒ね・・・!
カエルくんエルモ.jpg
もう四半世紀も一緒にいる子たちです。
どうだろう、わたしはできるだろうか?と尋ねる相手です。

いつもいつも常に力など無いと自覚せざるを得ない状況ながら、
いつもいつも常に喰らいついてみせるとなんの保証もなく思ったり。

今年はずんずんと帰呉していろいろ与えてもらおうと勝手に思ってます。
どぞ、よろしく何卒なのです。
最期の声はどこまでも私的なものとわたしは考える。
そうでなければ悲しすぎる。
たとえば明日死ぬとわかっていたらわたしは今宵をどうするだろう?

いつも通りに飲んで過ごす・笑。
会いたい人に、会いたいとだけ、なんとか伝える。
なんか、「途中」の気がする。

ええと。今月末にまた帰呉してずんずんやってみようと思います!


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愛している。 [ぐだぐだ]

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「愛している」の概念が性愛的(男女間)に用いられるようになったのは、
もしかして森鴎外の「舞姫」から? 意外と近代であって。
それ以前の日本では「いとしい」「かなしい」「かわいい」に
当てられていたそう。

わたしは子どもを持てない、あるいは持たない今世であった。
自ら望んだ部分もあるし、かつての交際相手の意向でもある。

だからかなのかわからないけど、わたしは子どもが嫌い。

こどもだからってなんでも許されると思ったら大間違いよ!
・・・そんな風に眺める。
こどもを産んだからって偉そうにしないで!そうも思う。

今日はわたしが生まれた日でいわゆる誕生日でした。
おめでとう、わたし。
ありがとう、父と母。
めぐりめぐって甥(姉の息子)とスタバでだべった。
こんど彼が遠くに赴任するので壮行会みたいな気分。

わたしは決して「いいオバサン」ではなかった。
お小遣いもお年玉も威張れるほどあげられなかったし、
会いたいけれど会わないでいる期間も長かった。
甥のことをずっと「王子」と呼んできた。

2人いて、こんど遠方に赴任するのはお兄ちゃんのほう。

彼は昨年結婚して、うまくいけば(?)わたしはもうじき「オバアチャン」。
だって、二十歳のときに生まれたんだもんなー。
生まれるのをいまかいまかと待ちわびたもんなー。

繰り返すけれど、わたしは子どもが嫌い。
でも、それって、「嫌いな大人と、好きな大人がいる」のと同じで、
「嫌いな子どもと、好きな子どもがいる」ってのだとわかっています。

ま、血は水より濃い、というだけかもしれんが。

愛している、と。

脈絡もなく天啓のように信じられるのは王子たちへの愛でした。
愛しているなんてよくわからない、親にさえ感じたことがない。
ただ。
王子たちにだけは耳の奥にすとんと着地するように心地よく、
愛しているとわかっていた。気づいたときにはすでにそうだった、
というだけ。

ある程度の成長と経験を得た大人同士として語れる日が来るとは。

彼らは母(わたしの姉)の真似をして、
わたしを「玲子」と呼んでくれる。
わたしは彼らにとって「玲子」という生き物であった。
それってどんな生き物なの(笑)?

「玲子ってなに?だれ?」と聞かれ、「玲子は・・・玲子だから」と。
弟くんのほうは幼少のころ、幼稚園の友だちにうまく説明できなかったらしい。

わたしは子どもを持てず(持たず)、そういう人からすれば自由気ままで、
わがままに生きているような存在だけど、
愛しているって実感は得たことがあるんだよ。

そこを自分に確認したいだけでした( ´艸`)。

愛している、それは未知で未開で到達不能な境地であり、
いつものお隣さん、だったりするのかもしれない。

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コトバと、箱。 [つれづれ]

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ひさびさの東京芸術劇場プレイハウス@池袋。
野田秀樹氏のNODA・MAP『フェイクスピア』。
ふれこみでは野田氏ならでは「いまこそ、言葉」らしい。
「フェイク(fake)」+「シェイクスピア(Shakespeare)」の
タイトルからして・・・そうだよね。

緊急事態宣言下ではあるけれど客席はほぼ満、補助席も出てる。
ロビーで数分マスクを外して居ようものなら、すかさず、
「マスクを・・・」とスタッフさんが申し訳なさそうにジャスチャーしてきた。
この人たちが後から刺されたらやだかんね、しました。

しかし、マスク、暑っ!

2時間5分ノンストップ、体の芯からどんどん燃えてくる。
暑い、顔も背中もお尻も汗びっしょり。このエネルギー・・・なんなの。

わたしは野田氏の作品は「芸術作品」と思っています。
だれだれの俳優が出ているからとか、初舞台のだれだれ女優を観たいとか、
そーゆーのを遥かに超越。きっと役者たちも求められているのだろう。
役作りとかそーゆーのをぶっ壊して光の塊になって飛び出すことを。

ここからはネタバレもあるので、観劇予定の方は気を付けてね。

シェイクスピアのパロディなタイトルだからシェイクスピア物語の
登場人物なんかを役者に一人何役も振り分けてやるのかと思うじゃないですか。
(あ、思わない? 浅はかでごめん)
違うの。あいや、確かに「ハムレット」とか「マクベス」とかの
悲劇の要素たんまりなんだけど・・・、ストーリーの案内人は「イタコ」。

はい。
恐山とセットの、あの、イタコです。

そして、野田氏がもっとも心を尽くしたのは、36年前の日本にあった事故。
これ・・・、戯曲を書くのに相当いのちを燃やしたはずだ。

真ん中に立つ高橋一生くんは(なれなれしくてすまん)は箱を持っている。
灰色のちいさな、箱。
この箱は、パンドラの箱であり、山中に投げ出されたボイスレコーダー、
野田氏のパンフレットの言葉で言うなら「コトバの一群」。。。。

橋爪功さん、白石加代子さんと、重鎮がほぼ出ずっぱりという過酷さ。
村岡希美さんの特徴ある声とナイロンで鍛えられたセリフ回し。
川平慈英さんの勢い、大倉孝二くんの代役となった伊原剛志さん。
伊原さん、かなりのプレッシャーだったろうな。
前田敦子ちゃんはちいさな体でがんばっていた。
いつぞやからか野田氏はアンサンブル(群衆)を多用するのだが、
このたびのアンサンブルはめっちゃ迫力あったし、躍動していた。

野田氏いわく「一生くんは演技をしない」のだそう、なんかわかる。
ただ声を発していればどこへでも透明に重なっていく感じ。
以前、ドラマの仕事で一生くんのインタ(カコミですが)したとき、
おー、この人にあんま演技のことを聞いちゃいかんなーと思った。
なぜか。
直感、あるいは野生で言動しているのを、無理矢理こざかしい言葉に
置き換えざるを得ないから。めっちゃ小難しい演劇青年かと思ったつのっ。

そーゆーの要らない、野田氏の作品には。役作りとかいらない。
だから、
役者も本も演出も装置も衣裳も音楽も、ついでに客席も、
ひっくるめて「芸術作品」になる。

これまたむかし、野田氏にインタ(制作発表でしたが)した際、
なんの話の流れだったか、「書く、ということは孤独にならざるをえません。
それを恐れては書けないし、芝居を書くべきでない」のようなこと
わたしの質問に対しておっしゃってくれた。

――あ。

そのときから、「書くのであれば(野田氏とわたしの雲泥の差はあれど)、
自らを孤独に追い詰めなければその先の光はない」と腹をくくったんだがな。

ちょっと・・・忘れていた(逃げていた)。

はい。
で。

いま、この作品を鑑賞できて本当によかった、という列挙!

●ことばは不自由である。巧みになればなるほど空々しい。
 自分がずっと思ってきたことをもう一度思い出せ。
●声があるからことばなのか、ことばがあるから声なのか。
 はじめに言葉ありき、その真の意味を手繰る。
 言葉で名づけることの恐ろしさを自覚する。
●死者の声を聴け。
●ノンフィクションの生々しさをリアルなフィクションにできるか?
●いまの世のなんと上っ面なことか。自省も含めて。
 なんと茶番な。社会想念にからめとられるな!

●いちど、恐山に行ってみよう!

さすがライター、うまいこととを言うね・・・!は、誉め言葉じゃない。
もしもそう言われたら、ああ、ダメだとわたしは自省する。

うまいことを言いたいんじゃない。
死者と生者の声を言いたいんだ。

目に見えないことばを目に見える文字に閉じ込めることの重大さを知る。

続編を書かなきゃな・・・って思い始めたところに、
野田さん、ありがとう。


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天岩戸の神話を持つ戸隠神社へ。 [つれづれ]

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先日、長野県の戸隠神社に詣でました。
女子の武士道で新境地を拓く石川真理子先生にお連れいただいて。

天岩戸、わかりますかね。
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日本の神話の物語です。

弟の「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」の暴挙に辟易した
姉の「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」は岩戸の中に引きこもりました。

このへん「古事記」なんかで面白いのでご興味の方はぜひご確認を☆彡

天照大御神は「太陽」ですね。
太陽が隠れてしまい世の中は闇です。
さあ、困った!

天照大御神を再びこの世にお出ましいただくために神々は策を練り、
「アメノウズメノミコト(天宇受売命)」が一心不乱に踊り、
それを観た神々が大笑いで大盛り上がりで「なんなの?」と
顔をのぞかせた天照大御神を一瞬にして引き出す。

そーゆー神話。再びこの地に太陽が現れる。

戸隠神社は、この神話をなぞるように参拝の地が設けられ、
アメノウズメノミコト、岩戸をぶん投げた「アメノタヂカラオノカミ(天手力男神)」、
そうした神々にご挨拶ができるのです。

上の山の写真はアメノタヂカラオノカミがぶん投げたという岩戸、
そして、奥社へは天に突き刺さるほどの杉の木立の道を延々行きます。

アマテラスオオミカミも、アメノウズメノミコトも、キーマンは女神、
女性なんですよ。

わかるかなー笑。この世は「おなごが乱れたらいかん」のです。

奥社へと導かれる杉の木立の道に入ったとき、「え、デジャ・ヴ?」
みたいな奇妙な心持になりました。なんなの、ここ、知っている景色。
二度見しましたね、三度観か。

アメノウズメノミコトのように一心不乱に踊る力を与えてください。
この身を見失ってもいいから。
「そうしたいのだ」という欲望のままに行かせてください。
ああ、許すのは、自分自身の過剰な自意識なのだけれどね。

そうしたいのだ、という欲望のままに。

自分を失うくらいに踊り狂う。

斜に構えた生き方はもうおしまいです。
自分が無くなる恐怖を超えて向かいたい場所があります。
たとえちっぽけなものだとしても、「これで死んでいい」極地へ。

うーん、今年は勝負ですね。
なんとまあ、今年も早半年ですよ、もうぢきわたしの誕生日もくる。
残り半分の今年で行けるところまで行こう。
踊ろう、アメノウズメノミコトのように。

戸隠のアメノウズメノミコトを祀る「火之御子神社」でちょっとだけ
踊りました・笑。
アメノウズメノミコトはのちに「猿田彦(サルタヒコ)」の妻となり、
「佐瑠女(サルメ)」の神と呼ばれるようになります。





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回答を用意。 [ぐだぐだ]

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今朝の空です。なんだか鏡か、溶ける寸前の氷のよう。

密閉空間以外はマスクをしないと決めたうえで、
万が一(?)にも路上等で指摘された場合の回答を、
いくつか用意することにしました。

ナンクセつけてくるだろう筆頭は、いわゆる年配男性。
おのれの軌跡に幾分かの自負があるでしょう、
「なんだお前は」「早くせんか」といった小言をしばしば聞きます。

マスクをしろよ、なんだ、お前は。

「あ、はい、マスクのほうがよっぽど不潔なんですよ。
おのれの菌が増殖してそれを吸い込むほうが、
入ってくるかどうかわからないコロナより現実的なので。
あと、身体が受け付けないんです、これでもひ弱で。
そちらさんのように声を荒げるほうがリスクありますよ」。

これだな。

迷うのは、親など周囲の大人から洗脳されている子ども。
「マスクしないといけないんだよ」。と。
言われたとしたら。

「だれがそういうの? ママが言うの? パパ?
どうしてマスクをするのか、マスクの意義を教えてくれた?」。
この段階で子どもは目を白黒させるでしょう。

追い打ちをかけます。
「あなたはどうしてマスクをしているの? どう聞いている?
あなたの周りでお友だちとかなんかなった?」

答えは、ノー。でしょう。おおよそ。

子どもには赤ちゃん言葉で応じていればいい、というのは嘘です。
子どもにこそ小難しい言葉を使うべき。
すくなくともわたしは甥っ子にそうしてきました。

把握、とか。
諦念、とか。
意義、とか。
象徴、とか。

甥っ子がどんなに不思議そうな顔をしても突っ走る。
それが、いまは結婚して一家を営む年齢になりました。
彼らはわたしをおもしろい親戚だと思ってくれている。

そろそろ反旗を翻すとき、です。

言いくるめられて不安にさせられたのを逆手に取る。
ほぼ確実に五輪はやるでしょう。なんのため?
わかりません。

アスリートさんたちもえらい迷惑です、
こんな展開は予想だにしなかった。
とはいえ、アスリートさんのためだけに五輪開催はわたしは反対です。
ある種のこの不可抗力を受け入れる歴史だと観念してほしい。

ゆくゆくの、先の、時間で。

「令和前半の感染症問題は世界の、日本の、汚点でした。
ときの指導者たちは先見の明がまったくなく、
いたずらに人々を苦しめ、命を奪い、自然の摂理を無視しました」。
こんな風に言われるんだろうな、と。
歯がゆくもある。

残念だなー。

戦争とかしてないのになー。

このたびのコロナは人為的であり、ワクチンも操作的であり、と、
いわれるとして、だれがいったい世界を支配したいのかな、と。
わたしはすこぶる不思議であります。
ここへ来て黄禍論なのか? 白人至上主義ってそうなのか?
わかりません。

躍らされていることを心地よく受け入れて踊る大衆、社会想念こそが、
もっとも恐れるべきものとよくよく思います。

疫病も、戦争も、不況も、実態はなくあるのは空気。

言い過ぎならごめんなさい。

人々の日々のささやかな営みを否定してまで自分のみ生き延びたいと、
とうてい思えない。
わたしは明日死んでもいいのです。
それくらい日々を懸命に生きているから。
正直、遠く離れた両親が今宵召されたとしても、
わたしは受け入れます、だってじゅうぶんにやってきたから。
後悔はありません。わたしはじゅうぶんにやってきたから。
じゅうぶんにやってきたことを両親もたぶん気づいているから。

はー。
ぐだぐだっす。すまぬ。





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匂う。 [ぐだぐだ]

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広く野生化もしているというオシロイバナ。
日本に入ったのは江戸時代だそうです。

その名の通り「おしろい」の香りがほのかにするそう。
初夏くらいかなあ? 路地を歩いていて、
お、なんか香ると、足を止めてオシロイバナを鑑賞したものです。

密閉空間でなければマスクを外そう。
あくまで自分の指針で思い立ち決めました。

もちろん、新コロのことやワクチンのことをテレビ以外、
ワイドショーやニュース以外で学んだ結果です。
各種の資料や、書籍、人々の解説を基にして。

つまり屋外ではありのままの空気を吸います。

ええっと、ああ、世の中は「匂い」に満ちていたのだなあ、と。
改めて気づきました。

初夏の匂いがする、アスファルトの匂いがする、排気ガスもちょっと。
都会の匂いがする、人の歩く匂いがする。

マスクの飛沫拡散防止?のうんぬんもありますし、知っていますが、
わたしは大人になって帯状疱疹も経験しているため、
マスクは苦手です、痒くて臭くてたまらない。

ま、臭いのは自分の息なのだろうから自分のせいだけど・爆。

人間ごときが「神の領域」に踏み込むことが以前から受け入れられない。
たとえば、細胞の再生とか、男女の産み分けとか、延命とか。
宇宙開発とか。

嗅覚は、
五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)の中でもっとも信用できる。
わたしはそう思っています。

なぜなら、
ほかの感覚は左右の経路をたどって届けられる、つまり、
右半身の受容は左脳で、左半身のは右脳。
けれど。

嗅覚だけは交差ではなく直線的な経路で脳に到達します。

あ、この香り、なんだっけ・・・?

苦しいような、甘いような、切ないような、腹立たしいのになつかしいような。
そうして、それから、ああ、これは前の男の好んでいたパフュームだ、と。
具体的な記憶がよみがえるのです。

香りの記憶に対する責任は重大。

ずっと、信じていることのひとつです。

匂いのない世界は味気ないです。
うちの父親は嗅覚を病んで楽しみが失せたと言います。
だのに、嗅覚を失っても障害者にはなれないのだそう。

なれない、のです。

なんだろう、そんなに嗅覚って軽んじられるものなのかなあ。
匂いの、記憶に対する責任は重大、です。

匂いがなければ愛のやり取りとか性交渉もつまらないのですって。
そーかもなー。

マスクを取って、ああ、匂いがする、と。今日ちょっと感激しました。



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前髪一ミリ切りすぎた午後~♪ [ぐだぐだ]

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〓前髪一ミリ切りすぎた~午後~
あなたに会うのがちょっぴり怖い~
by 松田聖子『赤い靴のバレリーナ』より。

ああー、前髪を切ってしまいました。ン年ぶり。
フラ〓をやっている都合で髪を無造作に伸ばしてきたけど、
レッスン再開の予定がつかなくて。

残念です。
残念だよね・・・、フラ〓踊りたい。

フラ〓のステージがあると髪をアップにするのが基本なので、
前髪も横髪もつれづれに伸ばすのが不文律。
それも成果が得られないいま、身体の欲望のほうが優先する。

後ろ髪が延びて首筋をつんつんすると、かいーのよ。
痒い。

くるくる天然パーマなので勝手に切ります、自分で。
なんかねー、美容室にかけるお金の価値がわたしにはない。
だったら、2回行くぶんの金額で芝居を一つ見ますわ。
そーゆー価値観。

というわけで、横髪も後ろ髪も気になったらお風呂の前に
ザクザク切って、しかも100均の散髪ハサミとかで、
適当としか言えないけど、あんまりバレない。
そしてついに前髪!
ああー。

前髪がなんぼのもんよ? なのですが、いや、ナンボのもんなのね。
鏡で見る自分の顔にしばらく慣れない。
いや、しかし以前は、めっちゃ短くしていた時期もある。
そのうち慣れるわ。

と。

そーゆー。ま、気分転換も多分だね・笑。



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クリアリング。 [つれづれ]

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なつかしいねえ、プランクトン。
ツリガネムシはなかなか発見できないんだよね、
ミジンコとかミドリムシはよくあるけれどね。

クリアリングは、直訳としていうなら「掃除」。
最近はスピリチュアル言葉として用いられる。
「浄化」の意味。

「クリアリングできるけど、そうしたら、
こだわりを失って書けなくなるかもしれないの。
それでもいい?・・・という選択かな」。

ある方に言われました。

「いいえ、でしたらクリアリングしないでください。
ありがとうございます。苦しいかもしれないけれど、でも、
書けないよりはマシです」。

かっこつけたけど、ほんとのとこはどーだろね・笑。

呉本の続を思ってさまざまに本を読んだり映画を観たり、
それなりに「(ある種の)筋トレ」をしているところ。
それが結構重くて、わたしごときのちいさな手では受け止めきれなくて、
ときに発狂しそうになります。

それでいて。
この尖った感覚を失うのも消滅くらい恐ろしい。
死はいいんです、いつでも受け付ける気概はある。
死と「消滅」はなんとなく違っていて、空っぽで生きたくないというか。

クリアリング=浄化は、しない。
うん、そーゆー選択もあっていいと思う。
望んで混沌なのだとしたら受けて立たねばならぬ。

この自意識はいましか確認できないのでナンだけど、
そーやって前世とか前々世とかやってきたんなら(もっともっと以前も含めて)、
持ち越しかー。

悪い。申し訳ない。

しかしねー。
あわててインプットしているせいか、元来のパー頭のためか、
このところちっとも言葉が出てきません。
こうして綴るのもやっとのこと。ううーん。
もっともっと尖っていたんだけどなー・苦笑。

なにか思い出さないとならないようです。
それがなにかはわからないけれど、
思い出せば「これだ」と気づくはずです。



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最後の晩餐。 [ぐだぐだ]

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なぜだかいまになって「最後の晩餐」みたいのが気になる。

むかーし、「ニュースステーション」の久米宏のコーナーに
著名人にインタビューする最後の晩餐がありました。
久米宏は・・・ちょっと父が似ておりまして嫌いでした・爆。
あんなふうな顔であんなふうに説教するので。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会付属のドメニコ派旧修道院の食堂(ミラノ)。
上に掲げた最後の晩餐の絵画が壁に描かれているそう。

第二次世界大戦中、この地にはドイツ軍が駐留していた。
「さすがにアメリカもイギリスも、最後の晩餐は攻撃しないだろう」って
高をくくったけど、そんなことはなくて、攻撃されちゃった。・・・・・でも。

壁画のこの壁は、ぽつんと生き残ったそうです。
石造りの建物のほとんどが崩れて真っ平らになった町中で、
この壁はすっくと立ち続けていた。
(呉の大和ミュージアムの戸髙館長に聞いたお話)

いま、「続・呉本」の準備として思いつく書籍を読んでいます。
特攻、飛行機。陸軍も海軍も。
あるいは呉の地にもご縁のある大田中将のこと。
「沖縄県民斯く戦えり」の方です。

いや、重い。
重ーくなる!

重ーくなるけど知らないわけにいかない焦燥感。
くー。自慢ではないけれどちっとも記憶できません。
それでも喰らいつく、あ、きたなって期間。

そうした合間に久米宏氏の「最後の晩餐」を読んでいます。
ちょっと息抜きの感じ、話し言葉のインタビュー起こしの感。
この人の聞き出し能力を学ぶ、というより、
邂逅したお相手のバリエーション、語られることごとに耳を澄ます。

明日確実に死するとしたらわたしならなにを最期の晩餐にするかな。

多くのお相手様が語るように「なにも食べなくていい」が本心で
非常に共感するけれど、あえて。食べるとしたら。

まずアルコール・笑。
それと、スイカ? あはは、好物だと子どもの時分から言われた。
うーん、バター風味のぐぐっと効いたデニッシュとか。
あ、バター好きなんですよ、バター風味、聞くだに萌える。

けど、やっぱ。

なんも食べなくていいかな。アルコールだけください・笑。
アルコールののちに甘ーいカフェオレがあれば満足。


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