引き受ける。 [つれづれ]
最近「引き受ける」ということを考えています。
この自意識のある時間って長くて短い。短くて長い。
ちょっと長すぎる・苦笑、長すぎるんだよなあ。
たとえば「悪役を引き受ける」とか。
そういうのって日々ことごとに縷々、多々、あるんだろうなと思う。
許してほしいという懇願の言葉があるけれど、それは、
だれでもない自分のために吐く言葉であって、
許されてホッとしたい、忘れたい、苦しみたくないという。
事件の裁判などでよく被害者遺族が「納得いく説明ではない」と
言うけれど、それは、たぶん永遠に納得しないと思う。
77年を迎える広島原爆投下にあたり、市長さんの、
為政者に持たせる核のボタンの言及がわたし的にはよかった。
世界を、地球を滅ぼしかねない核のボタンがごく個人的な支配下という。
深く考えないようにしてきたことへの指摘にも似ていた。
引き受ける、勇気、覚悟ともいうのかも。
わたしの生はまあ長くもなく(短くもなく)いまのところは保っており、
わたし自身が気持ちよくなるための謝罪もたぶんたくさんしてきた。
そうした長くもない(短くもない)生のうちに引き受けられること、
それがあるなら、進んででも、やらねば、なんて。
上に挙げた絵画はリッピの「受胎告知」。
マリアは「え、男なんて知らんけど!?」という処女で懐妊を引き受けた。
と、するなら。
一つ一つの自意識になにか引き受けられるものがあるかもしれない。
だれかのせいではなく、自覚する意識において引き受けること。
なんだろう。
所詮(爆)長いようで短い生なのだし、個別に執着しても仕方がない。
つたない指で出来ることを。
いや、悪い、ここんとこ傷つくことが多いよね、日本も世界も・苦笑。
2022-08-07 19:18
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