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広島原爆投下の日に、日吉台地下壕の講演。 [呉調査]

今日、8月6日は広島に原爆が投下された日。
毎年8時15分にはテレビをNHKにして一緒に黙とうします。
その後の市長の平和宣言は比較的に平易な言葉で述べられる印象で、
良いことだと思う。今年はとくに、こども代表の言葉が良かったな。
「未来に戦争の体験をする必要はありません。けれど、
過去の戦争を学ぶことは必要です(ハッキリ言葉は憶えてないけどこのような内容)」。

そう、本当に。

未来に戦争する必要はもうない、けれど、過去を知り学ぶ必要はある。
戦災を伝える方に、いまと未来になにを伝えたいですか? と質問し、
「歴史が語っているではありませんか」と回答してもらったことがあります。
ガツンと後頭部を殴られるような気づきの発端。その回答の奥行き。
簡単に教えてもらおうとしちゃいかんな、自ら学ばねばと、
呉に関心を持ちだしてからはそう、いつもわが身を律するのですけれどね。

そんな今日、「日吉台地下壕保存の会」の講演とはめぐりあわせですね。
慶応義塾大学日吉キャンパスの地下には、太平洋戦争時、
旧海軍連合艦隊司令部が置かれていました。
本来、艦隊司令部は「艦」、つまり、大和や武蔵という旗艦上にあったわけだけど、
戦争のカタチが「船」ばかりでなく、潜水艦や航空戦に広がったことで、
旗艦(艦隊の指揮艦)にいたのでは視野が狭いし、通信設備もままならぬので、
船から陸に揚がって、地下に潜ったわけです。
海戦の作戦を練ったり指令を出したり。大和の沖縄特攻もここから指示が出されたとか。

今日は、実際の地下壕見学ではなく、保存会の方の講演のみ。
実際に見学するには月2回の開催日に申し込む必要があります。
まあ、慶応義塾大学という現役バリバリの大学の地下ですからね、
大学に断らなきゃいけませんね、なんやかやと保存も大学主導みたいだし。

とはいえ。

ここまで来たんだから、なんか手ごたえがほしい。ってことで、
日吉キャンパスに行ってきました。
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第一校舎。最初、海軍軍令部はここに入って敵国情報の収集分析をしていたとか。
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こんなのもありました。地球儀のデザインですね。

のちに、学生の寄宿舎が連合艦隊司令部として使われ、
その地下に、作戦室や司令長官室などが掘られていった。暗号室や通信室。
現在見学できるのは、この寄宿舎下の壕らしい。
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地上に残っている遺跡はこの空気孔。でも、これねー。

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柵の中なんだわっ。近づいて見えんし、草ボーボー、っつの。
見学会に参加したら柵の中に入れてもらえるのかなー。
でも、こんなボーボーだと、かいーなー…。

先日、呉の海上自衛隊総監部の地下壕がマスコミ公開されましたが、
残念ながらいけないので、地下壕つながりで日吉台に行ったのです。
呉に帰れない間も、こっちでできることはする。
そっかー、こっから大和の沖縄特攻かー、と思えば鼻息も荒くなる。

日吉キャンパスは広くて、空気孔の場所がなかなかわからなくて遭難しかけた。
(校内で学生さん数人に聞いたけど、ほぼ全員知らなかった)
暑くて、汗だくだくで、腕がヒリヒリ日焼けしていった。

でも。

72年前の広島の今日はもっともっと熱かったんだ。
こんな風にセミの声なんて聞こえなかったんだ。
意識がトリップしないように注意深く歩きました。

広島と長崎の原爆投下の日の黙とうは強制するものではないと、
今日わたしは思った。強制してでもやらせたいというのはおこがましくて、
強制されなければやらないし忘れていくというのはある種仕方がなくて、
それはわたしたちが伝えていないからなんだと。
学んでいないから、今日だけとりたててそういう気分になるだけ。
わたしたちが学んでいないから。わたしがなにも知らないから。
強制しなくても祈る国であるよう、あり続けるよう、学ぶことが大事なんだ。

それで。

こども代表の言葉がすごくよかったって思ったんだ、きっと。教えられた。

2度と体験しないものを、どう、肌身に切実に知るのか。
追体験の想像力を身に着けたい、ありのままに正しく知りたいと強く思った日。
わたしはただね、自分の祖国に誇りを失いたくないだけなんよ。


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呉鎮守府地下壕から、防空壕の話をすこし…。 [呉調査]

昨日(7月17日)、呉のニュースが東京にいるわたしにも飛び込んできました。

海上自衛呉地方総監部が、戦時中の地下司令室を初公開。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170717/k10011062261000.html
ニュースソースはいろいろあるのですが代表して。

報道陣への公開はこのたびが初で、今月末には一般にも公開されるそうです。
地元の学校(呉工業高等専門学校)と協力して調査していくという点も注目。
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チラシ右上のほうにインフォメーション出てますね。

行きたいなー。行けなくて残念・泣。

地下壕の存在は戦後隠されていたわけではなく、倉庫に使われるなど、
あるということは知られていたそうです、・・・わたしは知らなかった。
というか、まったく興味がなかったんでしょうね。

でも、呉を学び始めたいまはガンガンに前のめりで興味津々。
呉在住の行かれる人、あとでぜひどんなだったか教えてくださいね!

記事で見る限り、地下壕はとても広く、壁は頑丈で、12の部屋が確認され、
呉が襲われた数々の空襲の被害はほぼ無かったとか。

呉の人と町を守るためにここで最後まで作戦会議が行われ、極秘資料を守った――。

人は「地面の中の穴」に生き延びる術を求める。
地面が、地球が、最後には駆け込むふところなのかなー、とか。
地下壕で、「防空壕」を連想しました、いや、
決して同線上に安易に並べて考えるつもりは毛頭ありません。
ただ、呉には、いたるところに防空壕があったんだよなーと、
自然と連想してしまったんです。

わたしも、丸古の「本家」の庭にあった防空壕で子どもの頃は遊んでいたと思う。
祖父母の入院や両親の仕事の都合でよく預けられていましたからね。

いまは潰されてなくなったようです。
でも、丁寧に呉の町を見ると、「ここ防空壕だったんじゃない?」は、
びっくりするほどたくさんあります。

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両城町にある横穴式防空壕跡。崖に横に掘り進むタイプですね。

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宮原町の道路わき。穴の前についたてがあったか無いかで安否はわかれました。

防空壕におけるさまざまなお話は、また改めて紹介していきますが、
そうか、呉にはこんな風景が普通の中にあるんだなってことを、まずは。
わたし自身、興味を持たなければスルスル見過ごしていたものばかりです。

防空壕を知ったからこそ、地下壕にも多大な興味が湧く。

「当時の人と同じ風景に立ちなさい」。

同じ風景に立ちたい、立つために、見過ごしてきた風景に気づきをもって目を凝らし、
初公開のニュースに沸き立ってぜひこの目で体験したいと欲する、そうなんです。

ま、どうあがいても今回の呉総監地下壕は無理なので・泣、
どうぞ見た人はレポくださいませね★




呉と豊洲が似てる? [呉調査]

呉がいまも造船と製鉄の町として在るのは、
元をたどれば呉海軍工廠からの技術を受け継ぐから。
終戦後、戦艦や兵器造りはもちろん解体されますが、
呉の湾岸の一等地にある工場群をどうするのか。
さまざまな書物を読むと「戦犯工場」と呼ばれた時代もあるそう。
そりゃ、そうですよね、兵器を造っていたのだからね。
一等地の巨大な工場群自体を壊すにも莫大な費用と人員が必要です。
そこで呉は、同じく工廠のあった、横須賀、佐世保、舞鶴と共に
海軍施設を平和産業へと転換する「旧軍港市転換法」を訴えました。
昭和25年のこと。終戦から5年目の出来事。
住民投票を経て成立したと、「呉の歴史」書にも記されています。

昨年(2016年)4月に呉は「鎮守府~日本近代化の躍動を体感できるまち~」として
横須賀・佐世保・舞鶴と共に4市で日本遺産の認定を受けましたが、
過去に一緒に「旧軍港市転換法」を訴え叶えた仲間だったんですね。

で。

旧軍港市転換法によって民間企業の誘致が進みます。
呉で有名なのは、日新製鋼、淀川製鉄所、IHI、など(ほかにもありますよ)。

個人的には「IHI」がなんだか記憶にある。
小学校の近くにIHIの社宅があって友だちが住んでいて遊びに行ってた。

最近、強烈な人脈をお持ちの方にご紹介いただき、
IHIの歴史を聞かせてもらう機会がありました。

創業の歴史は江戸時代にさかのぼります。
わたしたちのよく知っているIHIの改称前は石川島播磨重工業。
東京の豊洲で誕生。呉造船所は戦後に海軍工廠跡地を利用して設立。
現在、呉には、造船のJMC(ジャパンマリンユナイテッド)と、
航空機のジェットエンジンなど機械加工のIHI呉第二工場があります。

「大和のふるさと」。
大和を建造したドックの屋根部分だけが現存保存されています、ここがJMCですね。
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ところで。
IHI本社は豊洲、現在わたしの住まう場所からめちゃ近距離!

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いまの豊洲の道端にある案内図。完全に埋め立て地ですね。
江戸時代の新地開発で埋め立てられたのでしょうか(後で調べます・汗)、
この洲の一帯は造船所だったそう!
地図の左側をよくよく見ると、陸が船型に凹んでいる部分、わかります??

いま、当時のドックが一つだけ残されている。ららぽーとの中にあるの!
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「NO.2 DOCK」と記されています。
右奥に見えるクレーン、憶えといてくださいね!

反対から見るとこんな感じ。背景に見えているのが、ららぽーと。
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そして、そして。うちから見えるららぽーと方面。
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夜。前の写真で右奥に見ていたクレーンがライトアップ!
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わかるかな・・・。
青、赤、黄、緑・・・と、30秒か1分おきに色が変わるんです。

このクレーンはIHIの造船所時代の名残でした。
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いまはクルーズ船が出港してます。
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証拠。

ららぽーと豊洲の正式名称は「アーバンドック ららぽーと豊洲」。
わー、ちゃんとアーバン「ドック」って名前を活かしてる!

家人の仕事都合により意図せずこの地に引っ越してやっと一カ月。
そんなこの地に呉とのつながりを見つけ、興奮しました。
呉の眺めとはぜんぜん違う、なのに、似てる。
もしも引き寄せられて来られたのなら、なかなか呉に帰れず恋しくても、
この場所ならいっぱい呉のこと考えて、また、客観的にもなれて、
ちょうどいいのかもしれない、なんて。

(しかし・・・、クレーンの眺めの真ん前に高層ビルが建つ予定。
この眺めが保証されるのはあと半年か・・・泣)
(うちからの眺めの写真で手前に見えるクレーンは高層ビル建築クレーンで、
造船とはなんの関係もありません・・・! はあー!)



海底の戦艦大和。 [呉調査]

現在、呉の大和ミュージアムでは「海底の戦艦大和」と題した企画展をやってます。
昨年2016年5月に行われた、呉市による潜水調査の結果報告。
今年2017年4月26日にスタートし7カ月間、11月27日まで。

あいや、わたしはまだ実際には見れていません。
関係書籍とガイドブックを手に入れただけで。
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右は企画展以前に発行されたもの、DVD付2700円也。
左は現在ミュージアムで購入できる簡潔サイズのガイドブック300円也。
書籍のほうはビジュアル中心、ガイドブックはもうちょっと詳しく解説されている。

太平洋戦争の末期、戦艦大和は沖縄特攻の下命を受けて出発。
沖縄に到着する前に米軍に攻撃されて沈没しました。
3332名のうち、3056名が戦死、生還者は276名。
これは大和だけの数です。
沖縄特攻には二等巡洋艦「矢矧」のほか、駆逐艦が8隻出て、
駆逐艦「霞」「朝霜」「磯風」「濱風」沈没、「冬月」「初霜」「雪風」「涼月」帰還。
大和以外の9隻のうち5隻が沈み、981名の戦死者を出しました。

大和ミュージアムに行ったことがある人は知っていることですが、
ミュージアムの大和コーナーには沖縄特攻で戦死した方の名前が掲示されています。
それはもう小さな文字で壁一面で、圧倒されます。
わたしの遠い親戚(父方の祖母のいとこ)も大和と運命を共にされたので、
ここを訪ねると必ず名前を探す、大和ミュージアムでわたしが行う大事な作業の一つ。
でも。
ここに名のない人もいっぱいいっぱい命を落とされている。
全員が死ななくてよかった人たちです。

ガイドブックを見ていると、過去の潜水調査についても軽く触れられており、
それぞれの潜水調査の目的がすこしずつ違うことに気づかされます。
海の墓標委員会は大和の沈没地点の確認と遺骨収集や慰霊のため、
(もちろん、遺骨収集においては非常に繊細な配慮と考えが必要です。)
大和プロジェクト(テレビ系)や今回の呉市は大和の現状や構造を知るため。

今年の初め、呉市役所に飛び込んで、潜水調査をした方の話を聞きました。
(インタビューの詳細はいずれちゃんと発表します)
前回潜水調査から17年潜水調査を行わなかった理由には、
一つは予算的問題もあるけれど、もっとも大きなことは遺族の想いでした。
大和をはじめ海底に眠る艦艇は、それ自体が墓標、お墓なのです。
いくら学術的な目的があるとしても墓あらしと変わりない。
そうした想いと折り合いをつけながらのタイミングは難しかったのだとか。

また、この潜水調査に同行した若い新聞記者さんにも話を聞いたんです。
息子かよっ!って年代の彼の目はいったいなにを見てきたんだろうと。
(これもいずれちゃんと発表します)
話の中で印象的だったのは、「生活の跡が見えたことに胸が詰まった」。
46cm主砲や、船首の菊の御門、バルバスバウ、厚い甲鈑、
ボイラー室、船尾のスクリュー、このたび初めて確認したという測距儀と、
大和らしさの技術を目の当たり(モニター越しとはいえ)にするのもすごいことだけど、
それ以上に、乗組員らの居住区の跡に心をもっともつかまれたのだと。

彼が当時そこにいれば年齢的に中堅どころだったでしょう。
部下を持ち、その命を預かっていたのかもしれません。
彼のそんな感想に、わたしの心もザワザワと騒ぎました。

大和は活躍の場を与えられることなく失われたと言われますが、
「大和だけじゃないけど軍艦に“活躍”の言葉はいけん」と、
そんな風に言う人もいます。
すごく、すごく、真摯に考えなければならないことなんだ。
言葉を書く人間としてズキューンでした。

それと。
こんなことも教えてもらいました。
歴史をさかのぼって書こうとするとき、たとえば、被害者約●●名って書き方をしがちたけど、
「一人としておろそかにしてはいけない、一人も漏らしてはいけないんです」。
軍関係であろうと、軍属であろうと、市民であろうと、一人として無名な人はいない。
全員に名前があって、その名を呼ぶ人がいたのですから。
全員が確実にその時代を生きてわが身の為すことをしていたのですから。

ギュッと気持ちを引き締めた一瞬でした。

★今後も含め、なにか間違った記述をしていたらドシドシご指摘くださいませ★

この夏の間に企画展ぜぇーったい行かなきゃね!


現存する呉空襲の跡。 [呉調査]

これからすこしずつですが、現在学んでいる「呉」についての報告を、
いまの段階で感じていることを、書き溜めていきたいと思います。

トップバッターは、呉の氏神、亀山神社。
ここに、昭和20(1945)年7月1日深夜~2日にかけてあった、
呉市街地を焼き尽くした大規模な呉空襲の跡が、現存していることを教えてもらいました。

軍の本拠地の一つ、呉海軍鎮守府と、
艦船の造船所や兵器を造る呉海軍工廠があった呉は、
同年3月から、戦争が終わる前日の8月14日まで14回の空襲があり、
中でも呉市街地にもっとも甚大な被害を出したのが、
この7月の「呉空襲」と呼ばれているものです。

焼夷弾が降り注ぎ、2000人近い人が死に、12万人を超える罹災者が出た。
海軍や工廠で栄えていた町は一夜にして焦土と化し、一面の焼け野原。

「自分の家に帰るのにどの道を曲がるか角がない、そもそも道がない。
焼け残った銭湯の煙突を目印に行ってみたけど家はなかった」。
そんなお話も体験した方に聞きました。

焦土と化す、とは、字面としては知っているけれど、
その言葉が表す実態を、わたしは経験がない。想像がすべてです。

で。

夜空を昼にするほど巻かれた照明弾、豪雨のように降り注ぐ焼夷弾。

戦後72年のいま、当時の傷跡を現存で見られるものはほぼ皆無です。

ほぼ、皆無。

でも、「ほぼ」とつけるには、一つでも、見るものがあるから。
それが、亀山神社の狛犬です。

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初詣でに、収穫祭の祭。呉のみんなが知っているであろう氏神の亀山神社。
わたしの両親もここで結婚式を挙げたそうです。

焼夷弾を受けたままに残る狛犬は、鳥居をくぐってすぐのとこ。
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本殿を正面に、右側です。寄ってみましょう。
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台座を見ます。
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焼夷弾を受け、破損したままの姿を、残しています。
岩をも砕く炸裂。経年の汚れではない焼かれた煤跡も感じられます。

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本殿を背に、右と左を並べてみました。違いは一目瞭然。
本殿を背にさっきとは反対から見てますから、
左側が焼夷弾の子、右が無事の子。

「もし、焼夷弾を受けたのが顔や首だったらもげ落ちて、
修復されとったでしょう。でも、台座じゃったけえね。
修復いうんも思われずここまで残れてきた。
そろそろ古うなったし直そうか、いう話が聞こえてくるたび、
絶対に直しちゃいかん、残さんといかんて言うんです」、と。

なかなかまだ知られていないことだそうです。わたしも知らなかった。
教えられたこともなかった、たぶん、親も先生も知らないからです。

亀山神社自体、呉鎮守府長官官舎(いまの入船山記念館)が建つことで、
官舎に場所を譲り、ここに「引っ越し」してきた。
神様の引っ越し!?と驚いたのが、そもそも、
呉のむかしにいったいなにがあったんだ!?とわたしが調べ始めた
きっかけの一つです。

亀山神社の引っ越しについてはまた書きまーす。

そして今日は、呉空襲のあった日、7月1日です。


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