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現存する呉空襲の跡。 [呉調査]

これからすこしずつですが、現在学んでいる「呉」についての報告を、
いまの段階で感じていることを、書き溜めていきたいと思います。

トップバッターは、呉の氏神、亀山神社。
ここに、昭和20(1945)年7月1日深夜~2日にかけてあった、
呉市街地を焼き尽くした大規模な呉空襲の跡が、現存していることを教えてもらいました。

軍の本拠地の一つ、呉海軍鎮守府と、
艦船の造船所や兵器を造る呉海軍工廠があった呉は、
同年3月から、戦争が終わる前日の8月14日まで14回の空襲があり、
中でも呉市街地にもっとも甚大な被害を出したのが、
この7月の「呉空襲」と呼ばれているものです。

焼夷弾が降り注ぎ、2000人近い人が死に、12万人を超える罹災者が出た。
海軍や工廠で栄えていた町は一夜にして焦土と化し、一面の焼け野原。

「自分の家に帰るのにどの道を曲がるか角がない、そもそも道がない。
焼け残った銭湯の煙突を目印に行ってみたけど家はなかった」。
そんなお話も体験した方に聞きました。

焦土と化す、とは、字面としては知っているけれど、
その言葉が表す実態を、わたしは経験がない。想像がすべてです。

で。

夜空を昼にするほど巻かれた照明弾、豪雨のように降り注ぐ焼夷弾。

戦後72年のいま、当時の傷跡を現存で見られるものはほぼ皆無です。

ほぼ、皆無。

でも、「ほぼ」とつけるには、一つでも、見るものがあるから。
それが、亀山神社の狛犬です。

DSCF1516.JPG
初詣でに、収穫祭の祭。呉のみんなが知っているであろう氏神の亀山神社。
わたしの両親もここで結婚式を挙げたそうです。

焼夷弾を受けたままに残る狛犬は、鳥居をくぐってすぐのとこ。
DSCF1517.JPG

本殿を正面に、右側です。寄ってみましょう。
DSCF1518.JPG

台座を見ます。
DSCF1521.JPG

焼夷弾を受け、破損したままの姿を、残しています。
岩をも砕く炸裂。経年の汚れではない焼かれた煤跡も感じられます。

DSCF1525.JPG DSCF1526.JPG
本殿を背に、右と左を並べてみました。違いは一目瞭然。
本殿を背にさっきとは反対から見てますから、
左側が焼夷弾の子、右が無事の子。

「もし、焼夷弾を受けたのが顔や首だったらもげ落ちて、
修復されとったでしょう。でも、台座じゃったけえね。
修復いうんも思われずここまで残れてきた。
そろそろ古うなったし直そうか、いう話が聞こえてくるたび、
絶対に直しちゃいかん、残さんといかんて言うんです」、と。

なかなかまだ知られていないことだそうです。わたしも知らなかった。
教えられたこともなかった、たぶん、親も先生も知らないからです。

亀山神社自体、呉鎮守府長官官舎(いまの入船山記念館)が建つことで、
官舎に場所を譲り、ここに「引っ越し」してきた。
神様の引っ越し!?と驚いたのが、そもそも、
呉のむかしにいったいなにがあったんだ!?とわたしが調べ始めた
きっかけの一つです。

亀山神社の引っ越しについてはまた書きまーす。

そして今日は、呉空襲のあった日、7月1日です。


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