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海底の戦艦大和。 [呉調査]

現在、呉の大和ミュージアムでは「海底の戦艦大和」と題した企画展をやってます。
昨年2016年5月に行われた、呉市による潜水調査の結果報告。
今年2017年4月26日にスタートし7カ月間、11月27日まで。

あいや、わたしはまだ実際には見れていません。
関係書籍とガイドブックを手に入れただけで。
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右は企画展以前に発行されたもの、DVD付2700円也。
左は現在ミュージアムで購入できる簡潔サイズのガイドブック300円也。
書籍のほうはビジュアル中心、ガイドブックはもうちょっと詳しく解説されている。

太平洋戦争の末期、戦艦大和は沖縄特攻の下命を受けて出発。
沖縄に到着する前に米軍に攻撃されて沈没しました。
3332名のうち、3056名が戦死、生還者は276名。
これは大和だけの数です。
沖縄特攻には二等巡洋艦「矢矧」のほか、駆逐艦が8隻出て、
駆逐艦「霞」「朝霜」「磯風」「濱風」沈没、「冬月」「初霜」「雪風」「涼月」帰還。
大和以外の9隻のうち5隻が沈み、981名の戦死者を出しました。

大和ミュージアムに行ったことがある人は知っていることですが、
ミュージアムの大和コーナーには沖縄特攻で戦死した方の名前が掲示されています。
それはもう小さな文字で壁一面で、圧倒されます。
わたしの遠い親戚(父方の祖母のいとこ)も大和と運命を共にされたので、
ここを訪ねると必ず名前を探す、大和ミュージアムでわたしが行う大事な作業の一つ。
でも。
ここに名のない人もいっぱいいっぱい命を落とされている。
全員が死ななくてよかった人たちです。

ガイドブックを見ていると、過去の潜水調査についても軽く触れられており、
それぞれの潜水調査の目的がすこしずつ違うことに気づかされます。
海の墓標委員会は大和の沈没地点の確認と遺骨収集や慰霊のため、
(もちろん、遺骨収集においては非常に繊細な配慮と考えが必要です。)
大和プロジェクト(テレビ系)や今回の呉市は大和の現状や構造を知るため。

今年の初め、呉市役所に飛び込んで、潜水調査をした方の話を聞きました。
(インタビューの詳細はいずれちゃんと発表します)
前回潜水調査から17年潜水調査を行わなかった理由には、
一つは予算的問題もあるけれど、もっとも大きなことは遺族の想いでした。
大和をはじめ海底に眠る艦艇は、それ自体が墓標、お墓なのです。
いくら学術的な目的があるとしても墓あらしと変わりない。
そうした想いと折り合いをつけながらのタイミングは難しかったのだとか。

また、この潜水調査に同行した若い新聞記者さんにも話を聞いたんです。
息子かよっ!って年代の彼の目はいったいなにを見てきたんだろうと。
(これもいずれちゃんと発表します)
話の中で印象的だったのは、「生活の跡が見えたことに胸が詰まった」。
46cm主砲や、船首の菊の御門、バルバスバウ、厚い甲鈑、
ボイラー室、船尾のスクリュー、このたび初めて確認したという測距儀と、
大和らしさの技術を目の当たり(モニター越しとはいえ)にするのもすごいことだけど、
それ以上に、乗組員らの居住区の跡に心をもっともつかまれたのだと。

彼が当時そこにいれば年齢的に中堅どころだったでしょう。
部下を持ち、その命を預かっていたのかもしれません。
彼のそんな感想に、わたしの心もザワザワと騒ぎました。

大和は活躍の場を与えられることなく失われたと言われますが、
「大和だけじゃないけど軍艦に“活躍”の言葉はいけん」と、
そんな風に言う人もいます。
すごく、すごく、真摯に考えなければならないことなんだ。
言葉を書く人間としてズキューンでした。

それと。
こんなことも教えてもらいました。
歴史をさかのぼって書こうとするとき、たとえば、被害者約●●名って書き方をしがちたけど、
「一人としておろそかにしてはいけない、一人も漏らしてはいけないんです」。
軍関係であろうと、軍属であろうと、市民であろうと、一人として無名な人はいない。
全員に名前があって、その名を呼ぶ人がいたのですから。
全員が確実にその時代を生きてわが身の為すことをしていたのですから。

ギュッと気持ちを引き締めた一瞬でした。

★今後も含め、なにか間違った記述をしていたらドシドシご指摘くださいませ★

この夏の間に企画展ぜぇーったい行かなきゃね!


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