焼夷弾をさわりに。 [呉調査]
はーるばる、きたぜ、まーえばしー。
特急券を使わずスイカでぴぴっと、往復5時間程度。
本を読み読み途中目を上げて車窓を見ると、関東平野だねー。
遠景に山々はあれど、どこまでも似たような景色の中、ひたすら、
横移動していく感じ。住まいあたりが土砂降りだったのも知らない晴天のもと。
往復5時間もいとわず?来たかったのは、あたご歴史資料館。
前橋駅から徒歩なら20分ほど、愛宕神社の裏手にあります。
なんつーか……、地元密着な素朴さ。
火木土13時から15時までの開館、12時45分に着いちゃったけど、
「いいですよ、どうぞどうぞ、時間いってもあるようなないような」と、
昭和12年生まれのおじさまが半袖半ズボンで迎えてくれました。
わざわざ来たかったのは、焼夷弾がさわれると知ったからです。
太平洋戦争末期の昭和19~20年ころ、
前橋も米軍による無差別じゅうたん爆撃に遭いました。
米軍作成の目標計画順位表では、前橋57位、呉は10位に挙がっていました。
どうして前橋だったのか? 人口別中小都市の一つと考えられたとされます。
もう一つ、製糸産業(生糸)がさかんであったこともあったのでは、と。
安政6年の開国以来、前橋で生産された生糸(からのシルク製品)は、
欧米への主要な輸出品で、外貨を稼ぐ大きな柱だったとか。
空襲を受ける頃には製糸工場とは隠れ蓑で兵器の部品工場になった。どこも、そうなんだ。
「前橋の生糸で、日本は、大和や武蔵を造ったわけですよ」
別の眼鏡のおじさま(こちらも戦中生まれ)が、ちょっぴり自慢そうに言うので、
「そうでしたか、それはありがとうございます、わたし呉なんで」。
対抗していました・笑。
おじさま、目をぱちくり。「大和はどこで造ったんだっけ、三菱?」
わたし「違いますよ、呉の工廠ですよ」
おじさま「ほー、呉で。三菱じゃなかったっけ?」
わたし「(しつこいなあ)呉には海軍の工廠があったです、鎮守府があって。
三菱で造ったのは長崎、二番艦の武蔵です」
おじさま「そうね、そう」
おおう、地道に勉強してきたことがやっと役立ち始めた。と、同時に、
自分の地元のことは知っていてもよそのことはそうでもない……のだなあと。
関連付けてすこしずつつなげていくのも、大事かも、と。課題を感じたり。
こちらが、地元から見つかったという焼夷弾。
実に無防備に置かれています・笑。ちなみに扇風機は展示品じゃなくて現役備品。
わたし「さわっていいですか?」
おじさま「どうぞ、どうぞ」
持ってみました。
重くて、硬くて、じゃりじゃりしている。
おじさま「これ、持てるかね?」
わたし「なんですか、これ?」
おじさま「焼夷弾をまとめて束ねて頭にかぶせるふたよ。重いよ~」
わたし「……ふんぬっ! ぬぬ、あ、あがらないっ!」
おじさま「ハハハ! 上がらんでしょう、25~30キロはあるかねえ」
え? え? これがB29から落ちてきたの?
これで即死する!
焼夷弾は、日本特有の木造建築を燃やすために開発された、つまり市街地と市民、
無差別攻撃のための兵器。一本六角形の辺に合わせて合体させ、このふたをつけ、
投下してから結束バンドがちぎれてバラバラになった焼夷弾が降ってくる。
ついこの夏、もう一本展示していた焼夷弾が陸自に没収?されたそうです。
「中にナパームがちょっと残っていたのかなあ、ほかのより200グラムほど重くて、
信管もついたままだから、こりゃマズい、危険ですから、って。
農家さんに頼んでもらってきたのになあ、残念よ、残念」。とはいえ、
運んでくるときやここで爆発しなくてよかったと、カラカラ笑うおじさま。
小さな集会所一部屋の広さですが、お話好きのおじさまと、無防備な展示品で、
2時間近くも見ておりました・爆!
鉄のカブトもかぶってOK。重い。これで南方作戦は苦しいです。
赤紙、召集令状。
防毒マスク。こんなものが身近にあったとは。
名前や日付が彫られています。
ゲートル。初期は左で緻密な織りでしたが、だんだん右のように薄くなった。
現代にもサポーターは各種ありますがゲートルもその一種。
古くは江戸時代の脚絆(きゃはん)が進化したもので締め付けの疲労防止。
ゲートルを巻いて歩け走れひと時も止まるな、なのです。
加えて、下から這い上がる虫・蛇・蛭も防いだといいますが、
こんなに薄くなってはやられ放題で兵士は傷ついていきました。
今井さんと、太田さん、わたし。
さわれる、ということがポイントでした。歴史をわが身に想起させるために。
みんなに触られて腐食していくリスクもあると思うけど、
ガラスケースの中に大事大事に飾るだけでは遠のいていくと思うんです。
さわって、手を真っ黒に汚して(焼夷弾はあえて磨いてなそう)、重くて、
過去になにがあったかを、もしいま同じことがあったらどうなのかを、考える。
わが身のこととして、考える。
行ってよかったです。往復5時間は電車のお尻が痛かったけどね・笑。
★初回アップ時の記事に一部間違いがあり、ご指摘いただいて直しました。
本当にありがとうございます。どんどん教えてください!
特急券を使わずスイカでぴぴっと、往復5時間程度。
本を読み読み途中目を上げて車窓を見ると、関東平野だねー。
遠景に山々はあれど、どこまでも似たような景色の中、ひたすら、
横移動していく感じ。住まいあたりが土砂降りだったのも知らない晴天のもと。
往復5時間もいとわず?来たかったのは、あたご歴史資料館。
前橋駅から徒歩なら20分ほど、愛宕神社の裏手にあります。
なんつーか……、地元密着な素朴さ。
火木土13時から15時までの開館、12時45分に着いちゃったけど、
「いいですよ、どうぞどうぞ、時間いってもあるようなないような」と、
昭和12年生まれのおじさまが半袖半ズボンで迎えてくれました。
わざわざ来たかったのは、焼夷弾がさわれると知ったからです。
太平洋戦争末期の昭和19~20年ころ、
前橋も米軍による無差別じゅうたん爆撃に遭いました。
米軍作成の目標計画順位表では、前橋57位、呉は10位に挙がっていました。
どうして前橋だったのか? 人口別中小都市の一つと考えられたとされます。
もう一つ、製糸産業(生糸)がさかんであったこともあったのでは、と。
安政6年の開国以来、前橋で生産された生糸(からのシルク製品)は、
欧米への主要な輸出品で、外貨を稼ぐ大きな柱だったとか。
空襲を受ける頃には製糸工場とは隠れ蓑で兵器の部品工場になった。どこも、そうなんだ。
「前橋の生糸で、日本は、大和や武蔵を造ったわけですよ」
別の眼鏡のおじさま(こちらも戦中生まれ)が、ちょっぴり自慢そうに言うので、
「そうでしたか、それはありがとうございます、わたし呉なんで」。
対抗していました・笑。
おじさま、目をぱちくり。「大和はどこで造ったんだっけ、三菱?」
わたし「違いますよ、呉の工廠ですよ」
おじさま「ほー、呉で。三菱じゃなかったっけ?」
わたし「(しつこいなあ)呉には海軍の工廠があったです、鎮守府があって。
三菱で造ったのは長崎、二番艦の武蔵です」
おじさま「そうね、そう」
おおう、地道に勉強してきたことがやっと役立ち始めた。と、同時に、
自分の地元のことは知っていてもよそのことはそうでもない……のだなあと。
関連付けてすこしずつつなげていくのも、大事かも、と。課題を感じたり。
こちらが、地元から見つかったという焼夷弾。
実に無防備に置かれています・笑。ちなみに扇風機は展示品じゃなくて現役備品。
わたし「さわっていいですか?」
おじさま「どうぞ、どうぞ」
持ってみました。
重くて、硬くて、じゃりじゃりしている。
おじさま「これ、持てるかね?」
わたし「なんですか、これ?」
おじさま「焼夷弾をまとめて束ねて頭にかぶせるふたよ。重いよ~」
わたし「……ふんぬっ! ぬぬ、あ、あがらないっ!」
おじさま「ハハハ! 上がらんでしょう、25~30キロはあるかねえ」
え? え? これがB29から落ちてきたの?
これで即死する!
焼夷弾は、日本特有の木造建築を燃やすために開発された、つまり市街地と市民、
無差別攻撃のための兵器。一本六角形の辺に合わせて合体させ、このふたをつけ、
投下してから結束バンドがちぎれてバラバラになった焼夷弾が降ってくる。
ついこの夏、もう一本展示していた焼夷弾が陸自に没収?されたそうです。
「中にナパームがちょっと残っていたのかなあ、ほかのより200グラムほど重くて、
信管もついたままだから、こりゃマズい、危険ですから、って。
農家さんに頼んでもらってきたのになあ、残念よ、残念」。とはいえ、
運んでくるときやここで爆発しなくてよかったと、カラカラ笑うおじさま。
小さな集会所一部屋の広さですが、お話好きのおじさまと、無防備な展示品で、
2時間近くも見ておりました・爆!
鉄のカブトもかぶってOK。重い。これで南方作戦は苦しいです。
赤紙、召集令状。
防毒マスク。こんなものが身近にあったとは。
名前や日付が彫られています。
ゲートル。初期は左で緻密な織りでしたが、だんだん右のように薄くなった。
現代にもサポーターは各種ありますがゲートルもその一種。
古くは江戸時代の脚絆(きゃはん)が進化したもので締め付けの疲労防止。
ゲートルを巻いて歩け走れひと時も止まるな、なのです。
加えて、下から這い上がる虫・蛇・蛭も防いだといいますが、
こんなに薄くなってはやられ放題で兵士は傷ついていきました。
今井さんと、太田さん、わたし。
さわれる、ということがポイントでした。歴史をわが身に想起させるために。
みんなに触られて腐食していくリスクもあると思うけど、
ガラスケースの中に大事大事に飾るだけでは遠のいていくと思うんです。
さわって、手を真っ黒に汚して(焼夷弾はあえて磨いてなそう)、重くて、
過去になにがあったかを、もしいま同じことがあったらどうなのかを、考える。
わが身のこととして、考える。
行ってよかったです。往復5時間は電車のお尻が痛かったけどね・笑。
★初回アップ時の記事に一部間違いがあり、ご指摘いただいて直しました。
本当にありがとうございます。どんどん教えてください!
2017-09-15 10:03
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