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爆撃から逃れた防空壕。 [呉調査]

はーるばるーきたぜ、さーせーぼー。
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連日の、はるばるきたぜシリーズ、佐世保です。

長崎一泊目はホテルが悲惨。
午前2時まで向かいのどんちゃん騒ぎ。大声なのに言ってることが
ちっともわからないと思ったら、日本語じゃなかった。
その後は、悪夢と金縛りを繰り返すループにまんまと陥り、ほぼ無睡。
怖かったすよ。ホテル、変えました。

そんなこんなの寝不足大王ですが、朝一の高速バスなのでむしろ時間がよろしい。
暗いうちから佐世保を目指しました。
着いて午前中の訪問にわたしが選んだのは「無窮洞」という防空壕跡。
なんと、最寄りは「ハウステンボス駅」。
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こんなのを横目にしながら。

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目当てはこちら。

先の大戦中の昭和18(1943)年8月29日から掘りはじめ、
終戦の昭和20(1945)年8月15日に「掘りかた、やめ」で終了。
当時の旧宮村国民学校の12、13、14歳ほどの少年少女が、
その手につるはしや、ほげと地元で呼ばれるざるを持って掘ったものです。
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これが結構広い。圧迫感のないよう天井も高い。

きっと、こんな感じだったのでしょう。
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「無窮洞(むきゅうどう)」と名づけたのは当時の校長先生だそう。
無限極まりなく子どもたちの将来のあるように、と、
真相はポジティブな意味だったのですが、最初は逆に捉えてました。
掘っても掘っても戦争にキリがないって意味かと思った。
苦しさは子どもたちも同じ。大人以上の苦しみもあったと思います。

つるはしを突き立てた生々しい穴ぼこもいっぱいありました。
食糧難で食うものも食わずの子どもの労働の成果としては、
とても立派なものでした。
地下なのでひんやりしているし、石清水がいまでも溜まるそう。
掘って掘って掘り進んで、食糧倉庫を掘っていたときに終戦。
未完成のまま、いまに残っているのだといいます。

「ここも空襲を受けたんですか?」……わたしの気がかりはそこ。

「警報で7回ほど避難したようですが、爆撃は受けなかったと聞いています」
と、ガイドのおじさま。

ただ。
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「山の向こうにもくもくしたのを見ましたよ」・・・原爆のことです。

あの山の・・・、あの低い山の・・・、上に。

佐世保は呉に似ているんじゃないかと思いました。
原爆投下のほど近くで、海軍を抱えていた。

爆撃がなかった、というだけ、ほんのすこしだけ、救いを感じる。
うん・・・、救いでもなんでもないけれど。すべてが戦争だから。

レンタカーのない身では非常に不便だけど、行ってよかった。
修学旅行生などはたくさん訪れるそうです。
行きはハウステンボス駅からタクシーだったけど、
帰りはおじさまが車でハウステンボス駅まで送ってくれました(たぶん特別)。

午後は別を見学して(改めて書きます!)、最後に佐世保海軍墓地へ。
呉でいえば、長迫の海軍墓地です。
これまた駅から少々あるので、時間も鑑みて行きはタクシー。
帰りは市バスを使ってみよう歩いていたら・・・、防空壕発見!
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わー!
呉の道で見るのと同じ!!

タクシーでは気づかなかった。歩いてみて正解でした。
過去の防空壕は、倉庫や車庫や、なんとお店にも活用されているみたい。
ある種のすさまじい生命力?というか、地の力というか。

佐世保は初めての場所です。なのに、呉によく似ていました。

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